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小林一茶を読む121〜130

121

七番日記
あつさりと春は来にけり浅黄空
文化11年
1814
52歳
鑑賞日
2005
7/19
 雪国の冬は厳しく長い。もういい加減にしてくれと思う。その内にその厳しさにも慣れてしまって、あきらめてしまって、覚悟ができてしまってくる。自分の中に覚悟ができてしまうと、不意に春がやってきたりする。そのように感じるのである。なんだか拍子抜けの感じさえある。そんな感じが「あつさりと」であろう。もっと冬が続くかと思っていたら案外あっさりと来たという感じ。浅黄色の空が、そんな感じと、それでもやはりほっとしたような気持ちとよく合って印象的である。

122

七番日記
雪とけて村一ぱいの子ども哉
文化11年
1814
52歳
鑑賞日
2005
7/20
 春の光、春の喜び。そして人々と自然との交感。子供の活き活きとした姿。文句なく良い句である。
 ところで、このような状況は現代には失われてしまった。憂うべきか否か。

123

七番日記
花菫がむしゃら犬に寝られけり
文化11年
1814
52歳
鑑賞日
2005
7/22
 「がむしゃら犬」という言い方が面白かった。花菫との対比もまた効果的。

124

七番日記
一星見つけたやうにきじの鳴
文化11年
1814
52歳
鑑賞日
2005
7/23
父母のしきりに恋し雉の声   芭蕉
雉子の声沁みて山脈あはれなり   龍太
というのもある。私は雉の声をしっかりと聞いたことがないのであるが、これらの句から想像すると、雉の声にはしみじみとした寂寥感のようなものがあるに違いない。そんなことを思いながらこの一茶の句を読むと心に触れてくるものがある。一星(ひとつぼし)が何か大切な自分の願いのように感じられてくる。

125

成美評句稿
我と来て遊ぶや親のない雀
文化11年
1814
52歳
鑑賞日
2005
7/24
 『おらが春』には「我と来て遊べや親のない雀」とある。「遊ぶや」の方は自分の境遇を雀に託してしみじみとした味わいがある。一方「遊べや」の方は、もっと切切とした心情が込められていて、雀に対する愛情も強い。私は「遊べや」のほうが好きである。

126

七番日記
蠅一ツ打つてはなむあびだ仏哉
文化11年
1814
52歳
鑑賞日
2005
7/25
 「ほんとかなあ」という思いもあるし、私には無い一茶という人間の特質が出ているのかもしれないと思いつつ頂いた。一茶の小動物に対する親愛の情は有名であるが、私には実感としては、その辺りが分ってはいない。この句にあるようなものが真情だとすれば、一茶は情(なさけ)の道を歩んでいる人に違いないのである。私の場合はもう少しドライな道ではある。

127

七番日記
本町をぶらり\/と蛍哉
文化11年
1814
52歳
鑑賞日
2005
7/26
 〈本町〉は江戸日本橋本町。「本通りゆらり\/と蛍哉」という案もある

 「ぶらり\/」と行くのは蛍でもあり一茶でもある。その点「ゆらり\/」よりも面白いと思う。以前の句に「行秋をぶらりと大の男哉」というのがあったが、それから柏原に死に所を定め、父の遺産も確保した、そんな余裕が同じ「ぶらり」でもこの句には感じられる。


128

七番日記
寝た犬にふはとかぶさる一葉哉
文化11年
1814
52歳
鑑賞日
2005
7/27
 どの句を選ぼうかと思いながら一茶句集を読んでいるわけであるが、やはり一茶らしい句に出会うと思わずとってしまう。もちろん一茶らしいというのは自分の中で作られたイメージかもしれないのであるが、その一つとして自然への親しみの眼というものが確かに一茶にはある。この句なども、何気ない表現のなかに自然への親愛の情があり、それが一茶の本質であるからホッとする雰囲気があるのである。

129

七番日記
大根引大根で道を教へけり
文化11年
1814
52歳
鑑賞日
2005
7/28
 「ひんぬいた大根で道を教へられ」という別案もある。別案の方は川柳のような味であり、掲出句はそれに俳句の味も加わっている。直感的にそう言ってみたが、川柳と俳句の違いを考察したことはない。掲出句も川柳だと言えないこともないし、その境目は微妙であるが、俳句のほうは物事をより客観的に見る、あるいはより深く見るということではなかろうか。

130

七番日記
ねはん像銭見ておはす皃もあり
文化12年
1815
53歳
鑑賞日
2005
7/29
 これも川柳に近い。一茶の皮肉でもある。そういえば下手な涅槃像にはうっすらと薄目をあけて世俗をうかがっているようなものもある。
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