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小林一茶を読む131〜140

131

七番日記
嗅で見てよしにする也猫の恋
文化12年
1815
53歳
鑑賞日
2005
7/30
 相手の猫の臭いを嗅いでみて交尾するのを止めにした、というのである。猫という動物の面白さがよく描かれている気がする。この辺りには猫の句がいくつかある

陽炎や猫にもたかる歩行(あるき)神
紅梅にほしておく也洗ひ猫
鼻先に飯粒つけて猫の恋

などである。いずれも猫という動物の面白さが出ている。


132

七番日記
屁くらべや夕皃棚の下涼み
文化12年
1815
53歳
鑑賞日
2005
7/31
 〈夕皃〉は〈夕顔〉

 一茶にはこんな感じの句が多いのだが、ここまで言うと、やはり可笑しい。おずおずと言っているギャグではなく堂々と言っているギャグだから可笑しい。一茶という人間自体が面白く可笑しい。


133

七番日記
妹が子やじくねた形りでよぶ蛍
文化12年
1815
53歳
鑑賞日
2005
8/1
 〈じくねた〉は[すねた]の俗語らしい。〈形り〉は[なり]と読む

 いままですねていた子供が、そのすねた状態が続いていながらも蛍が飛んできたのを呼んでいる、というのである。可笑しいしいじらしい。人間とはこういうものだとも思うし、一茶のあり方も投影されているような気さえする。世の中いろいろあってすねてみたくもなるが、やはり美しいものに対する憧れは捨てるわけにはいかない。


134

七番日記
涼風の曲りくねって来りけり
文化12年
1815
53歳
鑑賞日
2005
8/2
 〈裏店(うらだな)に住居(すまひ)して〉と前書

 この句の面白さは「涼風」をまるで生き物のように感じさせてくれることだろう。アニミズムということ。


135

七番日記
むさしのや野屎の伽に鳴く雲雀
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/4
 〈野屎〉は[野糞]のこと。〈伽(とぎ)〉は[話相手]のこと

 武蔵野で野糞をしている、雲雀が鳴いている、まるで自分の話し相手をしてくれているようだ、というのである。何だか楽しくなって頂いた。


136

七番日記
なの花の中を浅間のけぶり哉
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/5
 素直な叙景の句である。浅間山の辺りの大きな景色が見えてくる。

浅間山

http://wadaphoto.jp/japan/oniosi1.htmより


137

七番日記
わか草に笠投やりて入る湯哉
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/6
 この句も135の句と同様に旅の一場面として若々しくうきうきしたものがある。側に若草が生えているような露天風呂であろうか。「湯入衆の頭かぞへる小てふ哉」などという句も続く。

138

七番日記
痩蛙まけるな一茶是に有り
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/7
 〈蛙たゝかひ見にまかる、四月廿日也けり。〉という前書。蛙たゝかひ(蛙合戦)とは一匹の雌に数匹の雄が挑みかかる、蛙の群で行う生殖行為

 有名な句である。弱いものに対する思いや自分に対する励ましが、直截で肯定的な言い方で表現されていて、多くの人に受け入れられやすい句であり、有名になるのもうなずける。
 この前書があることは知らなかったが、この前書と合わせて読むと、より生(なま)な感じが伝わってくる。


139

七番日記
たのもしやてんつるてんの初袷
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/8
 〈てんつるてん〉は丈の短い着物を着たさまである[つんつるてん]の意味

 山尾三省氏が「七番日記に、二交三交(二回も三回も夫人と交わるの意)などという記述があるのは、一茶の子孫を残したいという願望が強かったのではないか」という意味のことを書いていた。そんなことを思いながらこの句を味わうと、より実感がわく。
 ちなみに一茶は、生まれた子供を次々に失い、最後の妻のお腹の中に宿っていた子供の誕生と成長を見ずにこの世を去った。


140

七番日記
瓜西瓜ねん\/ころり\/哉
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/9
 瓜や西瓜が転がっているのを「ねんねんころりころり哉」と言ったのである。同時に夏の昼の眠たいような時間が感じられる。童謡風の言い方が瓜や西瓜のかわいいような姿を想わせ、童話のような世界に引き込まれるようだ。
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