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小林一茶を読む141〜150

141

七番日記
わんぱくや縛れながらよぶ蛍
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/10
 わんぱく坊主が親にお仕置きを受けて縄で縛られている。そのわんぱく坊主が蛍を呼んでいるというのである。ほんとかなあ、と思うほど現代では有りえないことである。子供が縄で縛られるということもないし、蛍を呼ぶということもない。しかし本当にしろ嘘にしろ、この句を読むと、一茶自身の姿が重なって見えてくる。わんぱくであり、封建時代の百姓に生まれた身でありながら、美を求め俳階を求めた一茶そのものの姿である。

142

七番日記
リン\/と凧上りけり青田原
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/11
 「リンリンと」という感覚的な言葉が「青田原」の清々しい充実感と響きあっている。「リンリンと」というような若々しい現代的な感覚の言葉がよく江戸時代に使えたなあ、という驚きもあって頂いた。

143

七番日記
形代に虱おぶせて流しけり
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/12
 形代(かたしろ)は、夏の禊(みそぎ)や祓(はらえ)に用いる紙の人形。体をなでて災いを移し、川に流す

 当時の風俗に一茶の味が加わって楽しい。


144

七番日記
寝返りをするぞそこのけ蛬
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/13
 〈蛬〉は[きりぎりす] 

 いかにも一茶らしい句なので取らされる。「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」というのがあるが、むしろこの掲出句の方が生活実感もあって生(なま)な一茶が出ているような氣がする。


145

七番日記
ふしぎ也生れた家でけふの月
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/14
 〈漂白四十年〉と前書

 時間の不思議さ。人生の不思議さ。そんなものを感じているに違いない。四十年という長い長い月日。しかし、今生れた家に座っていると、全く時間が経っていないようにも思える。人生とは何なのか、時間とは何なのか。不思議である。


146

七番日記
茹栗や胡座巧者なちいさい子
文化13年
1816
54歳
鑑賞日
2005
8/15
 〈胡座巧者〉は[あぐらこうしゃ]

 どの句を鑑賞で取り上げるか、というのはかなりいい加減である。面白い句、それなりに成程なあという句がたくさんあるからである。だから、その日の気分で取ったり取らなかったりする。
 この句、茹栗(ゆでぐり)を前にして慣れたように上手に胡座をかいている子供を書いている。「こういう子供がいるなあ」という感じである。利発で如才なくちょっとませている、でもそれなりに可愛くて憎めない子供。


147

七番日記
しなのぢやそばの白さもぞっとする
文化14年
1817
55歳
鑑賞日
2005
8/16
 鋭敏な感覚の句である。やがてやって来る信濃の冬への恐怖、無を表象する白そのものへの恐怖などが入り交じった感覚。要するに、未来に対する恐怖であり、これは誰もがその心の奥に潜めているものであるが、一茶は鋭い感覚でそのことを言っている。突き詰めれば、死への恐怖である。一茶にはそれに対峙した句が時々出てくる。「花の影寝まじ未来が恐ろしき」などはその代表であろう。このように、その心奥を見つめたような句に出会うときに、一茶という人間の奥深さを感じるのである。

http://www.asahi-net.or.jp/~fa4t-msmr/wallpaper/wallpaper-3.htmより「蕎麦の花」


148

七番日記
山焼や夜はうつくしきしなの川
文政元年
1818
56歳
鑑賞日
2005
8/17
 「山焼きの明りに下る夜舟かな/一茶」というのもあるから、山焼きというのは夜にも渡って行われたのであろう。この山の火と夜の信濃川の対比が美しい。都会の夜景などとは比べ物にならない美しさがある。

149

七番日記
うす墨を流した空や時鳥
文政元年
1818
56歳
鑑賞日
2005
8/18
 これも感覚的に優れた句だと思う。うす墨を流したようなモノクロームの空を背景にして時鳥が際立つ。

150

七番日記
秋風や小さい声の新乞食
文政元年
1818
56歳
鑑賞日
2005
8/20
 新たに乞食となった人の物乞いをする声が小さいというのである。このあたりの人間の羞恥心を敏感に感じる一茶の繊細さというものに共感する。一茶は本来繊細で敏感なのである。「秋風」という季語の象徴性も高い。
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