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小林一茶を読む81〜90

81

七番日記
ゆさ\/と春が行くぞよのべの艸
文化8年
1811
49歳
鑑賞日
2005
6/9
 〈艸〉は[くさ]

 春が行き初夏の草がゆさゆさと揺れている。たっぷりとした自然の把握である。何句か前に「花の月のとちんぷんかんぷんのうき世哉」というのがあるが、なんのなんの一茶自身とても自然に敏感で優れた感性を持っている。


82

七番日記
子ありてや橋の乞食もよぶ蛍
文化8年
1811
49歳
鑑賞日
2005
6/10
 子どもがあるので橋の下に棲む乞食も蛍を呼んでいる、というのである。人間一茶の視点である。

83

七番日記
白露にざぶとふみ込む烏哉
文化8年
1811
49歳
鑑賞日
2005
6/11
 「ざぶとふみ込む」という表現に感心した。生き生きとした自然感覚である。
 白露というはかなくも美しいものに、無粋にもざぶと烏が踏み込む。一茶自身の自画像のような感じもあって楽しいし小気味も良い。

84

七番日記
婆々どのが酒呑に行く月よ哉
文化8年
1811
49歳
鑑賞日
2005
6/12
 酒を呑みに行くのには最も縁遠いような婆様が酒を呑みに行く。そのような月夜である。ユーモラスであり、自由であり、また月の持つ魔性のようなようなものも感じる。月は人間を自由へ突き落とす。

85

七番日記
生あつい月がちら\/野分哉
文化8年
1811
49歳
鑑賞日
2005
6/13
 どのような状況なのか自分の体験には重なってこないが、この「生あつい月」という体で感得したような表現に魅かれる。私などは、月はクールなものというイメージがあるが、その常識がひっくり返されたようで新鮮である。一茶独特の感性であろうか。

86

七番日記
春立つや菰もかぶらず五十年
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/14
 〈菰〉は[こも]と読む

 「菰もかぶらず」は乞食にもならずという意味。乞食にもならずに五十年生きてこられた。まあまあ目出度いことだ、ということである。芭蕉に「薦を着て誰人います花の春」という精神性を持った乞食への尊敬の気持ちのような句があるが、一茶の場合には乞食に対するそのような目はない。生活者の目で、乞食を見ている、乞食にはなりたくないと思っている気がする。


87

七番日記
うつくしや雲雀の鳴し迹の空
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/15
 ひばりが鳴いている空が美しいと言っているのではなく、ひばりが鳴いた迹の空が美しいと言っている。このあたりの心理的感覚はよくわかる。

88

七番日記
松蔭に寝てくふ六十州かな
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/16
 〈松蔭〉とは松平氏(徳川家)の恩沢のことらしい。
 いつの世でも体制に与して生きていくのは楽のように見える。実際は生き生きとした心の働きを殺して生きるわけであるが。この句、体制批判とまではいかないが、人間の愚かさへの皮肉のようである。直ぐ後に「永の日を喰やくわずや池の亀」などの句があるように、喰うや喰わずに過している庶民もあるのにという思いもある。

89

七番日記
陽炎にめしを埋る烏哉
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/17
 烏が何か獲物を地面に埋めている。烏にそのような習性があるかどうかは知らないが多分あるのであろう。それを陽炎に埋めるとした表現が景色としても面白いし、寓意も感じる。ゆらゆらとして頼りないような陽炎、そこに大事なものを埋めるというのはやはりある寓意を感じてしまう。

90

七番日記
どか\/と花の上なる馬ふん哉
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/18
 これもいかにも一茶らしい。一茶は自分のことを風景の罪人と言ったそうである。つまり、雪月花は美しいという昔からの見方があるが、自分にはそれを素直に美しいと喜べないものがある。雪月花が単に美しいというのは生活者ではない貴族のような人が言うきまり文句に過ぎない、という気負いもあったに違いない。そんな一茶らしい句でもあり、また一茶自身の自分を揶揄した自画像のようにも見える。句そのものも馬糞が匂ってくるようなリアリティーがある。
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