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小林一茶を読む61〜70
日記断篇
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名月の御覧の通り屑家也
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文化5年
1808 |
46歳 |
鑑賞日
2005 5/16 |
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〈屑家〉は[くづや]と読む
「名月が御覧になっている通りに私の家は屑家です」「明々白々として私の家は屑家です」というようなニュアンス。貧乏もこのように明々白々の事実として受け入れられると、なんだか美しい。すねているというよりは開き直って、事実を楽しんでいる感じがある。負の境遇さえも笑いの種にする、これも俳諧の心意気の一つであろう。 |
文化六年句日記
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一村はかたりともせぬ日永哉
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文化6年
1809 |
47歳 |
鑑賞日
2005 5/17 |
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〈一村〉は[ひとむら]と読む
この句などにも一茶の幅広さを思う。一茶というとどうしても、人間が生きるということの様々な局面を下から見上げるように庶民的感覚で書いた作家だという感じがあるが、この句などは、生活臭さを離れて、あるいは生活の時間を離れて、ものとか時間とかに見入った感じのする一句である。 |
文化句帖補遺
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蝶とぶや此世に望みないやうに
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文化6年
1809 |
47歳 |
鑑賞日
2005 5/18 |
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しんしんと静まった涙を催してくる。 ときに一茶は反骨精神旺盛で、ときに皮肉で、ときに小さきものへの愛情豊かで、全体的には生きるということへの意欲に満ちた人物であると思う。その一茶の真情の中にこのようなものが潜んでいるのだ。静まりかえった明るさの中に存在することへの哀しみが漂う。 |
文化六年句日記
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身の上の鐘としりつゝ夕涼
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文化6年
1809 |
47歳 |
鑑賞日
2005 5/19 |
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身の上の鐘、すなわち運命の鐘、この世の無常を告げる鐘、というようなニュアンスであろう。 「なんと気持ちの良い夏の夕方だろう。こうして夕涼みをしていると生きているということが嬉しくなるわい。遠くで寺の鐘が鳴っている。あれが、この世の無常を告げる鐘だとは知っているが、それはさておき、やはりこの夕涼みは堪えられない」 この実感が“悟り”そのものだという見方もできる。 |
七番日記
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サホ姫のばりやこぼしてさく菫
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文化7年
1810 |
48歳 |
鑑賞日
2005 5/20 |
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サホ姫(佐保姫)は春の女神。ばりは尿ということである。 春の雨のことを「佐保姫のばり」と興じたのであるが、これが可憐な菫の姿と配合されて面白い句になっている。ものを産みだしていく春のエネルギーが、すなわち自然がもつ性的な顔が感じられる佳句である。 |
七番日記
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花の散る拍子に急ぐ小鮎哉
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文化7年
1810 |
48歳 |
鑑賞日
2005 5/21 |
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きれいな句である。花が散るリズムに合わせて小鮎が急ぐとも、花が散ったとたんに小鮎が急いだともとれるが、いずれにしても美しい風景、活きている風景である。 |
七番日記
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蛤の芥を吐する月よかな
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文化7年
1810 |
48歳 |
鑑賞日
2005 5/22 |
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〈芥〉は[ごみ]、〈吐する〉は[はかする]と読む
これも前句と同様の趣がある。蛤と月との交感。そして蛤が芥を吐きだすほどに美しい月夜。 |
七番日記
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艸そよ\/簾のそより\/哉
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文化7年
1810 |
48歳 |
鑑賞日
2005 5/23 |
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〈艸〉は[くさ]、〈簾〉は[すだれ]と読む
リズミカルに優しく吹く風が気持ちいい。そよ\/、そより\/というリズミカルなオノマトペが優しい眠りに引き込んでくれるようだ。 |
七番日記
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斯う居るも皆がい骨ぞ夕涼
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文化7年
1810 |
48歳 |
鑑賞日
2005 5/24 |
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〈斯う〉は[かう]と読む
考え方を述べたものであって、実感ではないから句としての迫力はないが、好きな一休の絵を思い出したので頂いた。 |
七番日記
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生て居るばかりぞ我とけしの花
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文化7年
1810 |
48歳 |
鑑賞日
2005 5/26 |
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金子兜太が一茶の傑作だという後年の「けし提げて喧嘩の中を通りけり」を思い出した。確かに「けし提げて・・」は一茶の男気、開き直った生き様の美学のようなものを感じる力ある作品である。 掲出句においては、この迫力はないし、恨み節のような感じもあるが、このけしの花も逆に生々しい艶がある。 |
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