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小林一茶を読む21〜30

21

与播雑詠
梅が香に障子ひらけば月夜哉
寛政7年
1795
33歳
鑑賞日
2005
3/31
 感覚のよく働いた句である。
 感覚のよく働いた句というのはどんな句でも魅力的である。
 だからといって感覚を追い求めては駄目だという感じが私にはある。感覚の良さはその人の状態が良い時に賜物のようにふっとやって来る。感覚は賜物であると思っている。
 この句の一句前(丸山一彦校注の一茶俳句集での)に「元日やさらに旅宿とおもほへず」というのがあり、これは一茶を厚遇した住職性誉和尚の専念精舎での句であるが、この掲出句もそこでの作かもしれない。気持ちにゆとりがあったのだろう。

22

西国紀行
朧々ふめば水也まよひ道
寛政7年
1795
33歳
鑑賞日
2005
4/3
 前書に〈風早難波村、茶来を尋ね訪ひ侍りけるに、已に十五年迹に死きとや。後住西明寺に宿り乞に不許(ゆるさず)。前路三百里、只かれをちからに来つるなれば、たよるべきよすがもなく、野もせ庭もせをたどりて〉とある

 頼ってきた知人に会えず、宿さえも借りられずに路頭に迷った時の心境である。「外側の事物は朧々としてはっきりしない、歩いていこうとすればそこは地面ではなく水たまりである。何だか自分は道を踏み間違えているようだ。」というような心境を持つことは誰にでもある。そんな表現である。


23

西国紀行
寐ころんで蝶泊らせる外湯哉
寛政7年
1795
33歳
鑑賞日
2005
4/4
 〈道後温泉の辺りにて〉と前書

 22の句では、宿がなくて困った場面の句であったが、ここではどうやら温泉に浸かってのんびりできたようである。そこに寝ころんで居ると蝶がやってきて自分の体に止まったのである。それを「泊らせる」と表現したのは、宿を拒まれて困った自身の経験から出た表現であろう。何とも嫌な世の中にあって、小動物に気持ちが向いていくというのは一茶の特徴かもしれない。「痩蛙負けるな一茶是に有」


24

西国紀行
塚の花にぬかづけば故郷なつかしや
寛政7年
1795
33歳
鑑賞日
2005
4/5
 〈亡師の石頭(塔)を拝して〉と前書。竹阿の墓碑のこと

 祈りを捧げるという行為は人間の心を柔らかくする。一流の俳諧師になろうという野心を持って過している身であるが、塚の前の花に額をつけてじっとしていると、心が柔らかくなってきて、そこに広がる心象風景はただ古郷の懐かしい風景である、というようなことであろうか。後年、やはり古郷に帰っていった一茶の心の中を見る思いである。


25

書簡
もたいなや昼寝して聞く田うへ唄
寛政10年
1798
36歳
鑑賞日
2005
4/6
 一茶の本心とも取れるし、まあまあ一般的に言えばもったいないことだくらいの、両方の感じがある。百姓を捨てて(捨てざるをえなくて)江戸に出て、俳諧師としてやっていこうという野心があった一茶にとっては、両方の気持ちがあったと取るのが自然のような気がする。

26

与播雑詠
早立のかぶせてくれしふとん哉
寛政10年
1798
36歳
鑑賞日
2005
4/7
 〈早立〉は[はやだち]と読む

 宿に同宿した人が早く出立するという時に今まで掛けていた蒲団を、自分に掛けていってくれた、というのである。まだ寒い冬のこと(ふとんは冬の季語)、当時の安旅館では一人分の蒲団も十分に無かったのであろうか。人情というものを描いた一場面である。


27

挽歌
炉のはたやよべの笑ひがいとまごひ
寛政11年
1799
37歳
鑑賞日
2005
4/8
 この句は栢日庵(はくじつあん)立砂の追悼句である。
 人の生はまことに儚い。きのう共に笑いあった人が今日はもう居ない。彼と最後に会ったのが、炉辺での語らいであり談笑であったのが、救いでもあるしまた悔しくもある。さらりとした表現であるがゆえに、尚更持っていきようのない悲しみが漂う。

28

西国紀行書込
夕日影町一ぱいのとんぼ哉
寛政年間
1789
〜1801
27〜
39歳
鑑賞日
2005
4/9
 童話のような童謡のような懐かしい風景が目の前に広がる。このような風景は誰しもが持つ原風景の一つではなかろうか。人間一茶への信頼が強まる。

29

父の終焉日記
生残る我にかゝるや艸の露
享和元年
1801
39歳
鑑賞日
2005
4/11
 火葬場で父の遺骨を拾った朝の作、とある《丸山一彦校注「一茶俳句集」(岩波文庫)》

 物心両面の支えになっていたであろう父の死。その時の一つの感慨。この時一茶にはまま母と義兄弟が残されていたが、彼らとは後年父の土地をめぐって争うことになる。


30

父の終焉日記
父ありて明ぼの見たし青田原
享和元年
1801
39歳
鑑賞日
2005
4/12
 〈初七日・・〉という前書

 亡父への思いがひしひしと伝わってくる。
 一茶は三歳で母を失い。八歳で継母を迎えるが継母とは上手くはゆかなかった。祖母には可愛がられたが十四歳の時にその祖母も死んでしまった。そして十五歳で江戸に奉公に出るわけであり、そこで俳諧の道へ進むのである。
 父が死んだ今、青田原を見ながら、できたら自分は古郷で父とともにまた父の後を次いで農民として生きたかったという思いも、この時にふと頭を過ったのではないだろうか。「青田原」が悲しくも美しい。

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