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小林一茶を読む161〜170

161

八番日記
萍の花からのらんあの雲へ
文政二年
1819
57歳
鑑賞日
2005
8/31
 一茶らしくないと言えば言えるが、一茶の幅広さであると思う。憧れをメルヘン風に表現している。逆に生活者一茶の言うことだから、リアリティーも感じる。

http://www3.kcn.ne.jp/~katoh/nature/ukikusa/より「萍の花」


162

八番日記
蟻の道雲の峰よりつゞきけり
文政二年
1819
57歳
鑑賞日
2005
9/1
 この句も昨日の「萍の花からのらんあの雲へ」とおなじような憧れの要素があるが、この句のほうが実景に即している分、強みがある。

163

八番日記
母馬が番して呑す清水哉
文政二年
1819
57歳
鑑賞日
2005
9/2
 取ろうかどうか迷ったが結局取った。動物を描く一茶の句はやはりほのぼのとしたものがあり、取らされてしまう。これは一茶に備わった資質であり、自然ににじみ出てくるものなのであろう。「清水」が効いていて風景も見えてくるし、「清水」に象徴性もある。

164

おらが春
なでしこやまゝはゝ木々の日陰花
文政二年
1819
57歳
鑑賞日
2005
9/3
 〈まゝはゝ木々〉は継母を帚木に言い掛けた言葉

 帚木(ははきぎ)の陰に撫子が咲いている。そこから直に継母を引きだしてくるというのは、一茶には継母との不運な関係がかなり強く刻印されていたに違いないのである。一茶の生涯は幼い時に実母に死なれ、継母との仲がうまくなかったことに大きく支配されたと言っても過言ではないからである。しかし、その関係が一茶という稀な俳人を産みだしたことも事実であるから、運命とは面白くまた愛おしいものであるとも言える。

帚木

http://utuwa-s.hp.infoseek.co.jp/topic-00/us-01-3.html
より


165

八番日記
古里は蠅すら人をさしにけり
文政二年
1819
57歳
鑑賞日
2005
9/4
 若くして古里を離れた一茶は晩年になって係争の末、父親の遺産を義弟と分けることになるのであるが、やはり俳諧稼業などに精を出す一茶に世間の目は冷たかったのかもしれない。
 ところで私はこの山国(一茶の故郷である柏原からそう遠くない)に引っ越してきてから、この地方には蠅よりすこし大型の虻がいるということを知った。この地方ではこの蠅のような虻をウルリというのであるが、これが夏になると大量に発生してよく人を刺す。だから、この句にある「蠅」というのは実はこのウルリではないかなどと思ったりもする。

166

おらが春
子宝がきやら\/笑ふ榾火哉
文政二年
1819
57歳
鑑賞日
2005
9/5
 一茶の句の魅力の一つはそのオノマトペ(擬声語・擬態語)にある。この句でも「きやらきやら」と笑うという表現で幼児の笑う様が見事に再現されている。選んだ句の中でのオノマトペを見てみよう。

白魚のどつと生るゝおぼろ哉
貌ぬらすひた\/水や青芒
一村はかたりともせぬ日永哉
艸そよ\/簾のそより\/哉
わらの火のへら\/雪はふりにけり
ゆさ\/と春が行くぞよのべの艸
白露にざぶとふみ込む烏哉
生あつい月がちら\/野分哉
どか\/と花の上なる馬ふん哉
本町をぶらり\/と蛍哉
瓜西瓜ねん\/ころり\/哉
リン\/と凧上りけり青田原
ざく\/と雪かき交ぜて田打哉

どの句もそのオノマトペが魅力的である。


167

八番日記
木がらしや廿四文の遊女小屋
文政二年
1819
57歳
鑑賞日
2005
9/6
 〈廿四文の遊女〉は最下級の遊女のこと。むしろ囲いの小屋に住む(この一茶の鑑賞における註は殆ど丸山一彦氏校注の岩波文庫『一茶俳句集』からのものであります。)

 二十四文というのが今では幾らぐらいのものなのか知らないが、とにかくむしろ囲いの小屋に住んでいたというから極貧の暮しである。しかも自分の体を売る遊女である。このような女に目を付けて、木枯しと合わせて描く一茶の心持ちに共感したい。このようや最下層の者への共感が一茶にはあるのだ。このような句を見ると一茶への信頼感が確実に深まる。


168

八番日記
暑夜の荷と荷の間に寝たりけり
文政二年
1819
57歳
鑑賞日
2005
9/7
 [あつきよのにとにのあひにねたりけり]と読む

 かつて私はインドを少し旅したことがあるが、句の良し悪しとは別にその時の感じが蘇ってきたので取り上げてしまった。インドではほとんど三等列車で移動していたが、混んでいる時などは荷棚の上で寝た。日本では網棚は人が乗れるスペースはないがインドの列車の荷棚は人が座れるほどに広いのである。あのインド亜大陸の暑さの中、荷棚の上の荷物と荷物の間で長時間我慢していたのを思い出したのである。


169

八番日記
椋鳥と人に呼るゝ寒哉
文政二年
1819
57歳
鑑賞日
2005
9/8
 〈江戸道中〉と前書。[むくどりとひとによばるるさむさかな]と読む。

 「椋鳥」は田舎から都へ来た者をあざけっていう語である。特に農閑期に江戸へ出稼ぎに行き、春に帰国する信濃者を指すことが多いらしい。椋鳥の渡りの習性が似ているためにそう呼ばれたという。一茶の生涯も渡り鳥の如くに信濃や江戸やその他の地を渡り歩いた生涯であった。別案には「椋鳥と我をよぶ也村時雨」というのもあるが、これは芭蕉の「旅人と我が名呼ばれん初時雨」を意識してのことだろう。芭蕉の人生を〈旅人〉と形容するとすれば、一茶の人生は〈渡り鳥〉と形容できるのかもしれない。


170

おらが春
ともかくもあなた任せの年の暮
文政二年
1819
57歳
鑑賞日
2005
9/9
 人間あれやこれやと頑張っても結局最後は「あなたまかせ」でいるよりしょうがない。自分の寿命さえ自分ではどうにもならない、最後は「あたなまかせ」である。この「あなたまかせ」に大安心の境地を見出したのが信仰者と言える。一茶がそういう境地であった感じはないが、これだけ苦労してこれだけの感受性を持った人間であるから、いずれ本当の「あなたまかせ」の境地を獲得するものと希望している。
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