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小林一茶を読む171〜180
八番日記
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春立や二軒つなぎの片住居
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文政三年
1820 |
58歳 |
鑑賞日
2005 9/10 |
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〈片住居〉は[かたずまひ]と読む
『一茶俳句集』(丸山一彦校注 岩波文庫)によれば、〈片住居〉に関して「遺産分配取極一札により、家屋敷を折半し、異母弟仙六が北半分に、一茶は南半分に住んでいた」とある。 |
八番日記
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孤の我は光らぬ蛍かな
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文政三年
1820 |
58歳 |
鑑賞日
2005 9/11 |
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〈きりつぼ、源氏も三ツのとし、われも三ツのとし母にすてられたれど〉と前書 〈孤〉は[みなしご]と読む 今から見れば、一茶はとても光った存在であるが、一茶自身は時折はこのように自分を小さなものと見做したのであろう。時折は自分を小さなものと見做すのは良いことではある。謙虚になれるからである。いけないのは他者と比較して、自分を小さなものと見做すことである。もともと人間はこの世界で小さなものであるから、誰が優れているとか誰が劣っているとかの問題は出てこない。この句の一茶の心持ちはその辺りが欠点ではある。蛍と源氏蛍を語呂合せした軽い句としてみたい。 孤の我は光りぬ蛍かな であったっものを、丸山一彦氏が〈り〉を誤字として〈ら〉に直したものであるからである。私としてはもともとの「孤の我は光りぬ蛍かな」のほうが句の内容としては好きなのである。さて真相は? ちなみに一茶も光源氏の母もその三歳の時に死去している。 |
八番日記
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歩きながらに傘ほせばほとゝぎす
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文政三年
1820 |
58歳 |
鑑賞日
2005 9/12 |
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〈傘〉は[からかさ]と読む
何となく生きて在ることが嬉しいような場面である。降っていた雨が止んで空が晴れてきた。濡れた傘を乾かすために晴れた空気の中をさして歩く。ふと空では時鳥が鳴いてゆく。日常的なささいな場面であるが、このようなささいな事にやはり、生きてあるということの味がある。 |
真蹟
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陽炎や目につきまとふわらひ顔
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文政四年
1821 |
59歳 |
鑑賞日
2005 9/13 |
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〈みどり子の二十七日の墓〉と前書
墓参りをした時の句である。一茶は生れた子供を一茶の生前にはすべて亡くしている。彼の死後に生れた子供が子孫として残ったそうである。 |
八番日記
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田楽のみそにくつゝく桜哉
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文政四年
1821 |
59歳 |
鑑賞日
2005 9/14 |
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〈田楽〉とは角形に切った豆腐に味噌を付けて火にあぶったもの
芭蕉の有名な句に「木のもとに汁も膾も桜かな」というのがあるが、それを踏まえて面白がって作った句であることは間違いない。取り上げるほどの句でもないが、何でもどんどんと句にしていく一茶の面白さはある。とにかく一茶は生涯に二万句近くも作っているのだ。 |
八番日記
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蝶見よや親子三人寝てくらす
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文政四年
1821 |
59歳 |
鑑賞日
2005 9/15 |
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親子三人が川の字になって寝ている。それを蝶々が眺めているというほのぼのとした雰囲気の句であるように思えた。その幸せを噛みしめているような雰囲気もあると思えた。が、実はこの時に一茶は次男石太郎を失い、子は無かったのだそうである。だからこの句は、一茶の強い憧れによる所産である。一茶ほどあからさまに生に執し、そのことをあからさまに表現した俳人はかつていなかったのではないか。生に執した一茶の、自分の死後も自分の分身を残したいという願望が、この句のようなものを書かせたのではないか。 |
梅塵八番
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やれ打つな蠅が手をすり足をする
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文政四年
1821 |
59歳 |
鑑賞日
2005 9/16 |
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有名な句である。一茶はその句の数から駄句も多いが、その中でこの句に出会うとやはり凛とした響きを感じる。小動物に対する共感の気持がベースに有って、つまり自分もちっぽけな存在に過ぎないがそれなりに一生懸命生きてやるという態度が有ってこそ、このような凛とした強い語調の句が出来るのだと思うのである。 |
八番日記
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踊から直に朝草かりにけり
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文政四年
1821 |
59歳 |
鑑賞日
2005 9/17 |
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岩波『一茶句集』(丸山一彦校注)のこの句の次ぎの句は
松の木に馬を縛つて角力哉 となっている。両句ともその当時の庶民、ことに農村地帯の庶民の活き活きとした生活の感じがよく描かれているので頂いた。盆踊りが終ると直に家畜にやる朝の草を刈ったり、馬を連れて何かの仕事中に角力をやって楽しんだりと、そのバイタリティーが楽しい。 |
梅塵八番
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汁の実の足しに咲けり菊の花
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文政四年
1821 |
59歳 |
鑑賞日
2005 9/18 |
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一茶は自分のことを「風景の罪人」と言ったそうである。つまり花鳥風月を愛でるという伝統的な美意識は自分にはないというわけである。この句も、花の季節を最後に飾る清楚な菊の花も、自分にとっては単なる汁の実として便利なだけである、というのである。このような内容の句は沢山あったが、今日は取り上げた。 「風景の罪人」と開き直ってはいるものの、花鳥風月を愛でる心は一茶にもある。しかし、単に月よ花よとお目出度く浮かれているだけの余裕は自分にはない、というのである。生活者としての一茶、農民の子として生まれ、いわば土から世間を眺めるような目線を持った一茶の当然の心情である。 この土からの目線を俳句文学に持ち込んだ一茶の功績は大きく、これからも俳句文学を豊かなものにしてくれる可能性は大きい。だから「風景の罪人」と自分を卑下したような言葉を言う必要はなかったと、私は思うのであるが、しかし歴史的にみれば、このような言葉を言わざるを得なかったのもしかたがない。 |
八番日記
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秋風にふいとむせたる峠かな
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文政四年
1821 |
59歳 |
鑑賞日
2005 9/19 |
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「ふいとむせたる」にとても感心する。草深い峠道という感じもあるし、秋風ということで何か心理的な陰影もある。春風でも自然の息吹を感じて良い句であるような気がするが、秋風のほうが陰影も濃く味わいも深い。晩年の一茶のたゆたうような境涯感。 |
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