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与謝蕪村を読む 11〜20
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畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ
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天明元
1781 |
66歳 |
鑑賞日
2004 12/11 |
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畑を耕している人がいる、今までじっと動かないでいた雲もいつの間にかなくなってしまった、というそれだけのことなのだが、確かな風景が見えてくる。さすがに画家の目というか、単なるスケッチではない、画面を構成する力を感ずる。また、風景画家が風景を前にして過す時間とはこんなものだろうな、というような、だらだらと流れてゆく日常の時間とは違う、切り取られた濃い時間感覚がある。 |
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紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞
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天明3
1783 |
68歳 |
鑑賞日
2004 12/12 |
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「燃ゆらむ」は「燃えているのだろうか」というような意味。 この句、非常に感覚の働いた句である。紅梅の花が赤く散っていて燃えているように美しい。そこに馬の糞を配して、これまた馬の糞が湯気を立てて薫ってくるようだ。視覚的な美しさが嗅覚的な感覚と混ざり合って、生々しい実体感を具現している秀句である。 |
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山鳥の尾をふむ春の入日哉
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明和6
1769 |
52歳 |
鑑賞日
2004 12/13 |
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「山鳥の尾」は「長」を導く序詞(尾形仂校注・岩波文庫・蕪村俳句集) 枕詞あるいは序詞というのは面白い言葉である。
この句においても「山鳥の尾をふむ」が意味の上で微妙な働きをしている。ああこれは序詞で春の日の長さを表わしているんだなあ、という意味を頭に置きながら、実際に山鳥の尾を踏んだと取っても味がある。二重の味である。序詞を使うことの面白さである。 |
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遅キ日や雉の下りゐる橋の上
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天明2
1782 |
67歳 |
鑑賞日
2004 12/14 |
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平凡そうに見える句だが選んでしまった。「遅き日」の感じがよく伝わってくるからである。 春の長い一日、長い時間を過していると、日常的な煩わしいことも遠くに行ってしまったような意識になる。そんなのんびりした雰囲気の中で。雉も人間に近づくことの危険も忘れてのんびりと橋の上などに下りてくる。「遅き日」という独特の時間感覚の中での人と動物の出会いである。 次の一句なども「遅き日」の時間感覚を見事に表現している。 |
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遅き日のつもりて遠きむかしかな
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安永4
1775 |
60歳 |
鑑賞日
2004 12/15 |
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日常的な時間から非日常的な時間への誘いのような句である。 「遠きむかし」を遠い昔の事を思い出している、というようには取りたくない気持ちがある。「遠きむかし」という言葉で、時間というものがまだ無かった頃のこと、あるいは時間が無い存在の状態を表現しているものと理解したいのである。つまり全く非日常的な時空である。瞑想的な人間なら誰もが経験する時空、日常や世間や歴史のごたごたから超越した時空である。 芭蕉が「古池や蛙飛びこむ水の音」や「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」のように、音から入って深い瞑想的な境地を表現したように、私は蕪村という人は時間に対する特別な感覚があったのではないかと思えてきた。 |
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春の海終日のたり/\哉
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宝暦12
1762 |
47歳 |
鑑賞日
2004 12/16 |
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〈終日〉は[ひねもす]と読む
有名な句であり、それだけの価値はある。悠久たる時間感覚があり、また春の海の物体感もある。それもこれも「のたり/\」という擬態語の上手から来ている。このような句は何も言うことはなく、ただ、この悠久とした時間を味わっていたいものである。 |
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大津絵に糞落しゆく燕かな
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安永7
1778 |
63歳 |
鑑賞日
2004 12/17 |
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芭蕉に「鴬や餅に糞する縁の先」というのがあり、蕪村もこれを意識したに違いないが、蕪村の句は蕪村の句でいかにも画家らしい風情があり、また、芭蕉の句よりも大きな空間を感じる。
ちなみに大津絵とはどういうものかと検索してみた |
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つばくらや水田の風に吹れ皃
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安永3
1774 |
59歳 |
鑑賞日
2004 12/18 |
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〈皃〉は[かお]である。 「皃」という字を使ったのが相応しく、水田を伝わってくる風に吹かれている燕の皃が見えるようである。 山口誓子に「かりかりと蟷螂蜂の皃を食む」というのがあるが、これもこの字を使ったのだ上手いのだが、この字は漢和辞典で引いても直接は出ていない場合が多い。よく調べてみると「貌」という字の項に、この字の異体として出てくるだけである。漢字は本来、象形的にできてきたものらしいが、この字などはその原形に近い雰囲気を持っている。 |
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日は日くれよ夜は夜明ケよと鳴く蛙
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天明3
1783 |
68歳 |
鑑賞日
2004 12/19 |
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「日は日くれよ夜は夜明ケよと」は意味を考えてみてもつまらない。これは蛙の声を半分擬声語的に書いたもので、要するに、延々と鳴く蛙の声と生態を表現したものである。ここにも蕪村の時間感覚が出ている。 |
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暁の雨やすぐろの薄はら
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安永5
1776 |
61歳 |
鑑賞日
2004 12/20 |
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〈すぐろ〉は末黒で、焼野の草木の先が黒いこと。
モノクロームに近い完成された絵である。視覚のよく働いた句で、蕪村の画家的な把握の力を感じる。単に流れ去ってゆく風景をだらだらとスケッチするというだけではなく、風景全体を一つの体として把握しきる力である。 |
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