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与謝蕪村を読む 21〜30


21

蕪村句集 

春の部
巻之上
骨拾ふ人にしたしき菫かな
安永7〜
天明3
1778〜
1783
63歳〜
68歳
鑑賞日
2004
12/21
 〈骨〉は[こつ]

 「骨拾ふ」という行為と「菫」の二物配合で、近代的で垢抜けた画面構成である。「骨拾ふ」は葬式で骨を拾うということであるが、これも深刻で心情的に扱うというよりも、むしろ画面構成の一部として使っているという感じである。よく芭蕉と蕪村の比較で、「五月雨を集めて早し最上川」「五月雨や大河を前に家二軒」が比較され、蕪村の句は絵画的であると評されるが、この「骨拾ふ・・・」なども深刻になりやすい場面を絵画的に扱っている。

22

蕪村句集 

春の部
巻之上
つゝじ野やあらぬ所に麦畑
安永3
1774
59歳
鑑賞日
2004
12/22
 これも明るい風景画。季語は「つつじ」で春であり、麦はまだ色づいていない可能性もあるが、風景画を愛でる私としては、この麦は色づいていてほしい気がする。その方が、つつじの赤色・麦秋の黄色・空の青と色彩的に美しい。ちなみに、月別に季語が並んでいる『現代歳時記』(成星出版)では、〈つつじ〉が四月、〈麦秋〉が五月となっているから、つつじが咲いている時期に麦が色づいていた可能性もある。
 つつじ野を歩いていた蕪村が、突然現れた麦畑に驚いた、その色彩の変化への驚きがあったような気がするのである。

23

蕪村句集 

春の部
巻之上
凧巾きのふの空のありどころ
明和6
1769
54歳
鑑賞日
2004
12/24
 〈凧巾〉は[いかのぼり]と読む。実際の表記はつくりだけで、中の「」は無い。

 不思議な時間感覚の句である。「凧が空に上がっているなあ、あそこは昨日の空があったところだ」というのである。蕪村は時間に対する鋭敏な感覚を持っていたに違いない。今までに出てきた句で、蕪村の時間に対する感覚を感じるものを並べてみよう。

 鴬の声遠き日も暮にけり
 遅き日のつもりて遠きむかしかな
 春の海終日のたり/\哉
 日は日くれよ夜は夜明ケよと鳴く蛙

などとなる。やはり随分多いと思う。
 もっとも掲出句は「凧巾」が正月の季語であるから。去年今年と移り行く時の流れを鋭敏に感じる時ではあると思う。だから、「新年になって空に凧巾が上がっている。新年だからか、空も妙に新鮮な感じがするなあ。ついこの前にはあそこには去年の空があったのになあ」というような感慨かもしれない。


24

蕪村句集 

春の部
巻之上
木の下が蹄のかぜや散さくら
明和7
1770
55歳
鑑賞日
2004
12/25
 [このしたがひづめのかぜやちるさくら]と読む。〈木の下〉は源頼政の子仲綱の愛馬

 「木の下」は源仲綱の愛馬の名であるが、おそらく蕪村は本来の意味である桜の木の下という意味も含ませていたと思う。そしてその本来の意味で取るほうが私には面白い。「木の下」を馬の名と取ると、歴史絵巻の一場面のように取れて、これも面白いのだが、「木の下」を木の下と取ると、より馬と風と桜の木という自然物の交感という感じが強くなる。


25

蕪村句集 

春の部
巻之上
ゆき暮て雨もる宿や糸桜
安永2
1773
58歳
鑑賞日
2004
12/26
 糸のようにしだれる糸桜が咲いている宿。その宿は雨が洩るのだが、それにもましてこの糸桜のなんとやさしく美しいこと、まるで雨の精が糸桜に化身したようだ、というような感じ。とても美しい風情である。
 ちなもに私は糸桜を見たことがないので検索してみた。

http://members.jcom.home.ne.jp/o-kimiyo/jiunnji.htm


26

蕪村句集 

春の部
巻之上
菜の花や月は東に日は西に
安永3
1774
59歳
鑑賞日
2004
12/27
 とても有名な句であり、画家蕪村の真骨頂が出ているとても美しい句である。このような句はいつ見ても新鮮で何回見ても飽きない。ごく当り前の事柄が、平明に書かれてあるだけで、人の心を明るくする力がある。まさに名句であると言えよう。芭蕉が〈不易流行〉ということを言った。これを私は「良いもの、普遍的な美はどんなに時代が進んでも、新しく新鮮に感じる」というように解釈しているのだが、まさにこの蕪村の句はそのような句である。

27

蕪村句集 

夏の部
巻之上
草の雨祭の車過ぎてのち
明和年間
1764
〜72
49歳
〜57
鑑賞日
2004
12/29
 祭の喧騒が過ぎて後、草に雨が静かに降っているという風情。動と静のコントラストが静をより深めている。祭の後は一般的に虚しい感じが残るが、この句では、そうではなくて祭の後の静けさをしみじみ味わっている感じである。

28

蕪村句集 

夏の部
巻之上
牡丹散て打かさなりぬ二三片
明和6
1769
54歳
鑑賞日
2004
12/30
 [・・・ちりてうちかさなりぬ・・・]と読む

 スケッチ風の愛らしい小品といった風情である。大変有名な句であるが、作品としての印象はそれ程強くはなく、あくまでスケッチという感じである。作品としての印象度の低さはどこからくるかというと、「・・・散て打かさなりぬ・・・」という説明しているような措辞からくるのではないかと思う。しかし愛らしい佳作であることには問題はない。


29

蕪村句集 

夏の部
巻之上
閻王の口や牡丹を吐んとす
明和6
1769
54歳
鑑賞日
2004
12/31
 閻王(えんおう)すなわち閻魔大王が牡丹を吐こうとしている、というのである。何とも印象的で感覚的な句である。28の句の静かなスケッチ風の句とは一転して豪華な色彩の絵画を見るようである。どちらも画家蕪村の一面ではあろう。そして両句とも明和六年五月十日の作であることも面白い。

30

蕪村句集 

夏の部
巻之上
寂として客の絶え間のぼたん哉
安永3
1774
59歳
鑑賞日
2005
1/1
 〈寂〉は[せき]と読む

 客が去り次の客が来るまでの少しの時間、所在ないような感じでふと庭に眼をやると、そこには牡丹が静けさの中に確とした存在感で咲いていた、というようなことである。
 客を厭うわけでもなく、また独りを厭うわけでもない蕪村の円満で深い人間性がこの句には良くでているような気がする。

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