表紙へ 次のページ

小林一茶を読む1〜10

1

千題集
木々おの\/名乗り出たる木の芽哉
寛政元年
1789
27歳
鑑賞日
2005
3/11
 今日から小林一茶の俳句の鑑賞を始める。テキストとしては主に岩波文庫の『一茶俳句集』(丸山一彦校注)を使わせてもらう。この本は去年、古本屋で350円で買ったものである。これから何ヶ月かは毎日この鑑賞を楽しむことになると思うが、考えてみれば俳句とは実に安価な楽しみの手段である。作るのも鉛筆と紙があればできるし、鑑賞するのも実に安価にできる。そしてそこには深い味わいが伴うのであるから堪えられない。

 さてこの句、一茶二十七歳の時の句である。いかにも若々しく、内に野心を秘めた心持ちが伝わってくるような句である。

 今、世間ではライブ・ドアのホリエモンがマスコミの話題をさらっているが、彼なども実に野心に満ちた好青年である。野心そのものが成就したり人間を幸福に導いたりすることはないが、野心があるならそれを堂々と演じてやればいい。私などはこのホリエモンのゲームを楽しんで見ている。所詮人生はゲームである。


2

霞の碑
三文が霞見にけり遠眼鏡
寛政2年
1790
28歳
鑑賞日
2005
3/12
 昨日はホリエモン(ライブドアの社長堀江貴信氏)のことを少し書いた。彼の良いところは、彼はいわゆるマネーゲームをやっているのであるが、それを楽しんでいる風があるところである。しかめっ面をしていないところである。今のところはそのように見える。この態度を生涯貫ければ大したものであると私は見ている。失敗しても成功しても。
 私達が生きていく上では金が必要である(貨幣経済社会では)。俳人や芸術家にとってもまた然りで、そしてこの事はまた良いことでもある。経済生活も含め、実人生の重みと対峙しながら生れる作品がリアリティーのある作品となり人々の心を打つ。芭蕉などに於ては、実人生に於ける肉声のようなものは昇華されて作品そのものには表れてこないが、性格と言おうか、一茶の場合にはそれがそのまま句に出てくる。そこが彼の人間臭さというか、面白いところである。芭蕉より作家として幅広いと言うこともできる。
 この句はそんな一茶の性格を垣間見させてくれる。なお、「三文が」は「三文の」という意味であろう。遠眼鏡の使用料が三文であったらしい。

3

霞の碑
山寺や雪の底なる鐘の声
寛政2年
1790
28歳
鑑賞日
2005
3/13
 一茶は長野県上水内郡信濃町柏原で生れた、黒姫山の麓である。その隣が戸隠村であり、その隣が私の住んでいる鬼無里村である(戸隠も鬼無里も現在は長野市)。私の住んでいる所同様に柏原も相当に雪深い。現在では雪が降れば除雪車がすぐに出動して道の雪をきれいに片付けてくれるが、一茶の頃は多分道もすっかり埋まってしまって、真冬などはまさに雪の底での生活という感じが強かったと想像する。そんな古里の山寺の鐘の音を詠んだものだろうか。しんしんと降る雪の中に、くぐもったような鐘の声が聞こえてくるようだ。

4

秋顔子
今迄は踏れて居たに花野かな
寛政2年
1790
28歳
鑑賞日
2005
3/14
 いままでは踏み付けられていたこの場所も秋になっていろいろな草花が咲き乱れる花野になったわい、といったところか。出世願望ともとれるし、名もない草花に対する親しみとも取れる。多分両方あるだろう。この二面性が一茶の面白いところのような気がする。

5

寛政三年紀行
蓮の花虱を捨るばかり也
寛政3年
1791
29歳
鑑賞日
2005
3/15
 蓮池の前で衣服から虱をはらっている一茶の姿が思い浮かぶ。蓮の花は極楽浄土を象徴する花であり、実際にそんな雰囲気がある。その蓮池の前で虱をはらっているというのは意外に明るくて親しみの持てる光景である。一茶としては、皮肉なども込めたつもりであろうし、伝統的な美意識からは意表をついているかもしれないが、私などには真実味があり親しい。蓮華国に居るお釈迦様なども実は蓮池の前で虱をはらっている、というのがむしろ真実に近い認識である。

6

寛政三年紀行
茨の花爰をまたげと咲にけり
寛政3年
1791
29歳
鑑賞日
2005
3/16
 [ばらのはなここをまたげとさきにけり]と読む 

 一茶の男っぽい性格が出ている。
 きれいな花が咲いている、しかしそれには刺がある。さあ、あんたは私をまたいでいく勇気があるか、という挑戦である。一茶はこれをまたいで行ったに違いない。後年には次のような句もある。

 けし提げて喧嘩の中を通りけり


7

寛政三年紀行
陽炎やむつましげなるつかと塚
寛政3年
1791
29歳
鑑賞日
2005
3/17
 〈蓮生寺に参。是は次郎直実発心して造りし寺とかや。蓮生・敦盛並て墓の立るもまた哀也・・・〉とある。敦盛は一の谷も合戦で直実に討たれたと解説にある(岩波文庫/一茶俳句集/丸山一彦校注)。

 前書と解説によると、この「つかと塚」は生前は敵同士の墓のようである。それが陽炎の立つ中にむつましげに並んでいるというのである。
 演劇が終ると全ての出演者が観客の前で手を取りあって挨拶をする。そのように、この世での人間のドラマもまさにドラマ(劇)であって、それが演じ終った時にはそれを演じていた人々は本来の姿にもどり仲良く寛ぐのだという。そんな事を考えながら、この句を読んでいる。
 一茶にもこの二面性があったような気がする。つまり、世間での闘い(演じている部分)と本来の姿である優しさである。


8

寛政句帖
日盛りや葭雀に川の音もなき
寛政4年
1792
30歳
鑑賞日
2005
3/18
 〈葭雀〉は[よしきり]と読む。

 ヨシキリは沼沢地や河辺の葭の中に群生しうるさく鳴きさえずる。行々子(ぎょうぎょうし)とも葦雀(よしすずめ)とも言われる。ヒタキ科ウグイス亜科。


ヨシキリhttp://plaza.rakuten.co.jp/miyanooka/7006

 後年(1822)一茶には「行々し大河はしんと流れけり」という同じような場面の秀句がある。掲出句もヨシキリの鳴き声は聞こえるが夏の日盛りの妙に森閑とした雰囲気が出ている。


9

寛政句帖
伊香保根や茂りを下る温泉の煙
寛政4年
1792
30歳
鑑賞日
2005
3/19
 〈温泉〉は[ゆ]と読む。〈伊香保根〉は群馬県榛名山、伊香保温泉がある。

 「伊香保根」という地名の言い方が良く働いた句である。夏の山の中の温泉場の感じが良く出ている。「茂り」は夏の季語。


10

寛政句帖
通し給へ蚊蠅の如き僧一人
寛政4年
1792
30歳
鑑賞日
2005
3/20
 「通し給へ」は関所などを通る時の場面。「僧」というのは僧形で旅をしていた一茶のこと

 自分のことを蚊や蠅のごときであるとへりくだっている。一茶には大へんな自負心があったと思うが、その自負心とこのへりくだりは矛盾しない。自負心の裏返しがへりくだりである。〈自負心〉と〈へりくだりの心〉を両立させることは生きていくための柔軟性である。このことが露骨に見えるといやらしいものなのであるが、肝心なことは「自分は自負心とへりくだりの心を合わせ持っているなあ」という気付きである。

表紙へ 次のページ
inserted by FC2 system