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金子兜太全句集鑑賞531〜538(『東国抄』76〜83)
句集『東国抄』 |
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人の足確と見えいて雨月なり
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平成7〜平成12
1995~2000 76〜81歳 |
鑑賞日
2005年 11/24 |
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〈確〉は[しか]とルビ 昨日の句の「眼」もそうであったが、この句における「足」も妙に存在感がある。昨日の鑑賞では、かなり私自身の思い込みかもしれないような文を書いたが、実は作者はただ人間の「眼」とか「足」とかの存在感を書きたかったのかもしれないなどとも思える。「眼」に対して「無月」、「足」に対して「雨月」という計らいもとても上手い。音の響きの面からも、意味の連想の面からもとても上手いのである。 さて、ここまで客観的に書いたから、例のごとく私の主観的な鑑賞に入ろう。いや、もしかしたらこれは鑑賞ではなく単なる連想かもしれない。
現代の人間に脳味噌が無いとは言わないが、現在進行している世界や地球の状況を見ると、少なくとも“知性”というものは無いなあ、と思わざるを得ない。 |
句集『東国抄』 |
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屋上から大根の葉が墜ちてきた
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平成7〜平成12
1995~2000 76〜81歳 |
鑑賞日
2005年 11/25~26 |
妙な味の句である。散文的な軽い書き方であるが、単なる事実を書き留めたものにも思えないものがある。謎のようなものが投げ掛けられている気さえする。 11月26日 「大根の葉」の句といえば、あの虚子の句が思い浮かぶが、私はこの両句に時代の移り変わりを感じて興味深い。 流れ行く大根の葉の早さかな 虚子の句は自然の中に暮す人間の日常生活の中の一場面であり、兜太の句はビル街における一見異常に見える日常的な出来事である。まだまだ人間が自然に囲まれて生活していた時代と、自然が人工物によって囲まれているような時代の対比がある。 |
句集『東国抄』 |
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生きてあり寒紅梅に土の匂い
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平成7〜平成12
1995~2000 76〜81歳 |
鑑賞日
2005年 11/27 |
このような句は私には呼吸するように自然に入ってくる。私は自然が好きである。というよりも自然の中でしか生きられない。都会は息が詰まって窒息しそうである。 先日、千葉市のある空き家の草刈りに行った。これは親戚関係の所有する空き家であるが、もしかしたら私の子供が住むかもしれないという家である。何故草刈りに行ったかというと、その家の庭に草がぼうぼうと生えていて迷惑だという近所からの苦情が市の方へ行って、市からの通知があったからである。私は、さぞかし、と思って、草刈り機を車に積んで出かけたわけであるが、何のことはない、それほど大きくない庭にちょぼちょぼと草が生えているだけである。草刈り機を使うこともなく鎌でちょいちょいと草を刈り、庭木の枝を払って事は終った。それでもそれなりに一メートル以上の草の山が庭の真中に出来たことは確かである。私は、この草の山は堆肥として使えばそのうち庭の片隅で野菜畑が作れそうだ、などと考えていたのであるが、後日また近所から苦情が出て、草の山を何とかしろとのことであった。草が生えている事が、草の山がある事が、都会人には堪らなく嫌なことらしい。しかも他人の家の庭の草である。今度は義理の弟が行って、その草の山をビニールのゴミ袋に入れてゴミとして出したそうである。二十袋くらいあったらしい。・・・何か変だ。「大根の葉よ、雨のように都会の上に降りそそげ」などという呪文を唱えたくなる。 この句における「生きてある」というのは、ただ引きずりながら永らえているという状態ではなく、この豊かな土の匂いのする花々の咲く地上に生きてあることが嬉しいなあ、という事なのである。 |
句集『東国抄』 |
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有馬記念という一団の馬たち
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平成7〜平成12
1995~2000 76〜81歳 |
鑑賞日
2005年 11/28 |
この一団の馬には艶がある。「有馬記念」という言葉の醸し出す雰囲気かもしれない。競馬のことはよく知らないが、多分「有馬記念」以外の言葉では駄目だろう。 「ひと」と呼ぶ動物出でて青き踏む このような句があるので、上の私の鑑賞もまんざら的外れではないという気がするのである。 |
句集『東国抄』 |
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眼ぐすりを注すときすずめ蜂直降
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平成7〜平成12
1995~2000 76〜81歳 |
鑑賞日
2005年 11/29 |
〈注〉は[さ]とルビ 「眼ぐすりを注す」という行為と「すずめ蜂直降」ということが響き合ってる。どちらにも快い刺激を伴う清涼感がある。 熊蜂とべど沼の青色を抜けきれず 少年 等がある。 |
句集『東国抄』 |
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天井に宮本武蔵冬の蜂
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平成7〜平成12
1995~2000 76〜81歳 |
鑑賞日
2005年 11/30 |
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この句の構造は解りにくい。この句から受ける印象を散文で説明しようとするとそれが難しいということである。しかし試みてみたい。 ただし、宮本武蔵という人物に対する共感や理解がなければ、この句の理解は浅いものになるだろう。女性には不向きな句かもしれない。
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句集『東国抄』 |
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サングラスのパブロピカソに蜜蜂
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平成7〜平成12
1995~2000 76〜81歳 |
鑑賞日
2005年 12/1 |
行ったことはないが、南フランスだとか、どちらかといえばスペインの明るい日差しを感じる。 |
句集『東国抄』 |
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明石原人薄暑のおのころ島往き来
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平成7〜平成12
1995~2000 76〜81歳 |
鑑賞日
2005年 12/2〜4 |
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句集『東国抄』末尾の句である。そして末尾の句に相応しい内容である。 【明石原人】・・1931年(昭和6)に兵庫県明石市の西八木海岸で直良(なおら)信夫(1902-1985)が採集した腰骨をもとに想定された化石人類。原骨は戦災で焼失したが、長谷部言人(はせべことんど)が命名。のち新人に属するとされた。(大辞林より) とある。すなわち「明石原人」は科学的な立場から見た太古の人間であるし、「おのころ島」は神話上の日本国である。このことを頭に置いて、明石原人がおのころ島を往き来している姿を思い描くと妙なる気分になる。科学的事実と神話的事実の融合とでも言えるような気分である。そして「薄暑」という言葉が、明石原人がおのころ島を往き来しているという事柄に強い現実味を与えている。 12月3日 刊行されている金子兜太の句集の最後の『東国抄』の鑑賞が終って、これでこの「金子兜太全句集鑑賞」は一応終りになるが、私はさらに「句集後」と題名を変えて鑑賞を続けて行きたいと思っている。何故ならこの「金子兜太鑑賞」は私のライフワークの一つの中心に位置するものになってきているので、止めたくないという思いが強いのである。 12月4日 この金子兜太鑑賞を続けるに当って、思い出されてくる一つの経験がある。それは約三十年前に私が書いた小文「私のインド旅行」にも書いてあることであるが、次のような経験である。 ある時、アリ・アクバル・カーンの演奏を見に行った時の事である。楽曲はサロッド奏者であるアリ・アクバル・カーンとその弟子の太鼓奏者の掛け合いのような即興演奏で進んでいくのであるが、その曲の途中でサロッドの主要弦が切れてしまうというハプニングが起った。西洋音楽の場合は此処で完全に音楽はストップしてしまう。しかし、アリ・アクバル・カーンは慌てなかった。彼は他の一人の弟子を呼んで弦を張り替えるのを手伝わせながら音楽の流れを少しも中断しなかったのである。残る弦でそれなりの音を奏でながら弦を張り替えたわけである。このことは即興音楽の強みでもあるが、彼の音楽センスと彼の生きる姿勢によるものが大きいを私は見ている。弦を張り終えた彼は、再び弟子の太鼓奏者との絶妙な対話を続けてゆき、音楽は完全なる終焉を迎えたのである。私にはこの弦が切れるというアクシデントがこの音楽全体をより完全なものにしたような気さえしたのである。さらに言えば、楽曲が終った後にも本質的な音楽は続いていた。物理的な音は無くなってしまったが、より精妙ないわば永遠の音楽に彼は聴衆を導いてくれたような気がするのである。その音楽は今も私の中で鳴っていると言える。
さて、この金子兜太鑑賞はいつ終るのであろうか。私、あるいは金子先生の弦が切れてしまった時である。・・・しかし、この金子兜太鑑賞は終らない・・・ 言葉は発せられないが、読者の中に永遠性というものの質が響き続けて行くような、そんな鑑賞でありたいと私は祈っている。 |
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