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金子兜太全句集鑑賞531〜538(『東国抄』76〜83)

531/tougokushou 76

句集『東国抄
7 
六十九句

人の足確と見えいて雨月なり
平成7〜平成12
1995~2000
76〜81歳
鑑賞日
2005年
11/24

 〈確〉は[しか]とルビ

 昨日の句の「眼」もそうであったが、この句における「足」も妙に存在感がある。昨日の鑑賞では、かなり私自身の思い込みかもしれないような文を書いたが、実は作者はただ人間の「眼」とか「足」とかの存在感を書きたかったのかもしれないなどとも思える。「眼」に対して「無月」、「足」に対して「雨月」という計らいもとても上手い。音の響きの面からも、意味の連想の面からもとても上手いのである。

 さて、ここまで客観的に書いたから、例のごとく私の主観的な鑑賞に入ろう。いや、もしかしたらこれは鑑賞ではなく単なる連想かもしれない。
 昨日の句の鑑賞の文脈で考えているのであるが、「のうなしあんよ」を思い出した。「のうなしあんよ」は『ナルニア国ものがたり』(C・Sルイス)に出てくるキャラクターであるが、足ばかりでかくて脳味噌が無いような生き物をユーモラスに描いたものである。

のうなしあんよ達
のうなしあんよが
寝転んでいるところ
CSルイス作瀬田貞二訳「ナルニア国ものがたり3ー朝びらき丸東の海へ」(岩波書店)より

 現代の人間に脳味噌が無いとは言わないが、現在進行している世界や地球の状況を見ると、少なくとも“知性”というものは無いなあ、と思わざるを得ない。


532/tougokushou 77

句集『東国抄
7 
六十九句

屋上から大根の葉が墜ちてきた
平成7〜平成12
1995~2000
76〜81歳
鑑賞日
2005年
11/25~26

 妙な味の句である。散文的な軽い書き方であるが、単なる事実を書き留めたものにも思えないものがある。謎のようなものが投げ掛けられている気さえする。
 先ず事実を書き留めたものであるとしよう。私にはビルの屋上から墜ちてきた、という印象がある。鉄筋コンクリートのビルから土の匂いの代表のような大根の葉が墜ちてくるというのは、その取り合わせ自体に意表をつかれた感じがある。あり得ないことのようだが、何でもありの現代ではあり得ることのような気もする。砂漠の民である人が自分の命を他人の命と共にビルにぶつけて、そのビルに居合わせた人々の命がビルと共にバラバラと墜ちてくるような時代である。大根の葉が屋上から墜ちてきた、という事実に遭遇した作者はこの現代という時代の奇妙なあり方を直感的に把握したのではなかろうか。現代ではテレビというものによって、世界のあらゆる悲惨な事件が、お茶の間感覚で日常的に眺められるが、この句における坦々とした散文的な軽い書き方も、わざとそのような事に通底させている感じさえする。書き方も含めて、やるせない文明批評の句のような気もするし、時代を予言した句のような気さえしてきた。

11月26日

 「大根の葉」の句といえば、あの虚子の句が思い浮かぶが、私はこの両句に時代の移り変わりを感じて興味深い。

流れ行く大根の葉の早さかな
屋上から大根の葉が墜ちてきた

 虚子の句は自然の中に暮す人間の日常生活の中の一場面であり、兜太の句はビル街における一見異常に見える日常的な出来事である。まだまだ人間が自然に囲まれて生活していた時代と、自然が人工物によって囲まれているような時代の対比がある。
 書き方も虚子の句は「・・・かな」と詠嘆調であり、無内容な事を力んで歌う演歌に似ていなくもないし、兜太の句はいわばポップスのように軽く書いている。
 虚子の句は、物そのものにのめり込んで物そのものの存在感が表現されている。そのような事が許される余裕のある時代であったとも言える。兜太の句は、物の奇妙な位置関係をさらっと書いて時代そのものを表現している。
 「大根の葉」の旅という観点からすれば、虚子の時代はまだ水平に流れてゆける時代であったが、現代においては、「大根の葉」は垂直に墜ちてゆく。


533/tougokushou 78

句集『東国抄
7 
六十九句

生きてあり寒紅梅に土の匂い
平成7〜平成12
1995~2000
76〜81歳
鑑賞日
2005年
11/27

 このような句は私には呼吸するように自然に入ってくる。私は自然が好きである。というよりも自然の中でしか生きられない。都会は息が詰まって窒息しそうである。

 先日、千葉市のある空き家の草刈りに行った。これは親戚関係の所有する空き家であるが、もしかしたら私の子供が住むかもしれないという家である。何故草刈りに行ったかというと、その家の庭に草がぼうぼうと生えていて迷惑だという近所からの苦情が市の方へ行って、市からの通知があったからである。私は、さぞかし、と思って、草刈り機を車に積んで出かけたわけであるが、何のことはない、それほど大きくない庭にちょぼちょぼと草が生えているだけである。草刈り機を使うこともなく鎌でちょいちょいと草を刈り、庭木の枝を払って事は終った。それでもそれなりに一メートル以上の草の山が庭の真中に出来たことは確かである。私は、この草の山は堆肥として使えばそのうち庭の片隅で野菜畑が作れそうだ、などと考えていたのであるが、後日また近所から苦情が出て、草の山を何とかしろとのことであった。草が生えている事が、草の山がある事が、都会人には堪らなく嫌なことらしい。しかも他人の家の庭の草である。今度は義理の弟が行って、その草の山をビニールのゴミ袋に入れてゴミとして出したそうである。二十袋くらいあったらしい。・・・何か変だ。「大根の葉よ、雨のように都会の上に降りそそげ」などという呪文を唱えたくなる。

 この句における「生きてある」というのは、ただ引きずりながら永らえているという状態ではなく、この豊かな土の匂いのする花々の咲く地上に生きてあることが嬉しいなあ、という事なのである。


534/tougokushou 79

句集『東国抄
7 
六十九句

有馬記念という一団の馬たち
平成7〜平成12
1995~2000
76〜81歳
鑑賞日
2005年
11/28

 この一団の馬には艶がある。「有馬記念」という言葉の醸し出す雰囲気かもしれない。競馬のことはよく知らないが、多分「有馬記念」以外の言葉では駄目だろう。
 たしかに競馬馬が一団となって疾走する姿は美しい。光る胴体、筋肉や四肢の躍動感とともに一団の馬たちが一つの連携した体(たい)のように移動してゆくダイナミックな姿には魅せられるものがある。
 それからこの句の印象の一つは、作者の呟きのような雰囲気を持っていることである。有馬記念という一団の馬たちがいるなあ、という呟きである。そして作者の視線は人間の歴史、馬の歴史、人間と馬の親密な関係の歴史というようなものに向いているような気がしないでもない。馬とか犬とかは太古の昔から人間の友達であった。人間とともに過し、人間に仕え、人間と喜怒哀楽を共にしてきた。単なる食用としての家畜でもなく、単なる愛玩用としてのペットでもない。そして現在、競馬馬にいたっては、人間のスポーツ心やギャンブルへの嗜好を満たし、また投資の対象ともなっている。まさに人間とともに生きているわけである。人間と馬の関係あるいは人間と犬の関係などの歴史を考えてみると、やはり単なる自然ではない霊長類ヒトの不思議さを感じるのである。
 この句の一句前の句に次の句がある

「ひと」と呼ぶ動物出でて青き踏む

 このような句があるので、上の私の鑑賞もまんざら的外れではないという気がするのである。


535/tougokushou 80

句集『東国抄
7 
六十九句

眼ぐすりを注すときすずめ蜂直降
平成7〜平成12
1995~2000
76〜81歳
鑑賞日
2005年
11/29

 〈注〉は[さ]とルビ

 「眼ぐすりを注す」という行為と「すずめ蜂直降」ということが響き合ってる。どちらにも快い刺激を伴う清涼感がある。
 兜太の蜂の句には快い清涼感を伴うものが多いような気がする。目が冴えるような感じというか、映像も鮮明な感じのものが多い気がする。今までに私が鑑賞した句にも

熊蜂とべど沼の青色を抜けきれず        少年
蜂に刺されて昼間が過ぎて星の雨        旅次抄録
人刺して足長蜂帰る荒涼へ           旅次抄録
二階に漱石一階に子規秋の蜂          両神
蜂に刺されて傲慢人間喚きたり         両神
春の城姫蜂落ちて水の音            両神

等がある。
 「狼」といい「蜂」といい、内側に闘争心を秘めた野性的な動物を兜太は好んだのではないか。そのような動物が兜太を生き生きさせた、逆に言えば兜太自身が闘争心を持った野性的な人間であるということである。兜太の句には「猪」や「犀」などもよく出てくるが、これらも内側に闘争心があり野生である。
 人間の分類でいえば、兜太は武士(クシャトリア)の質を持っているのかもしれない。それもどちらかというと野武士のような、あるいは黒沢明が描く用心棒のような風貌の益荒男を想い描く。さらに付け加えれば、禅的なあるいは瞑想的な資質もある。その意味でも次に取り上げる一句は面白い。そしてまた「蜂」の句でもある。


536/tougokushou 81

句集『東国抄
7 
六十九句

天井に宮本武蔵冬の蜂
平成7〜平成12
1995~2000
76〜81歳
鑑賞日
2005年
11/30

 この句の構造は解りにくい。この句から受ける印象を散文で説明しようとするとそれが難しいということである。しかし試みてみたい。
 とにかくこの句は、宮本武蔵と冬の蜂を並列させて、その両者の並列が醸し出す多分男なら感じることのできる、孤高で無頼な求道、そしてその求道の奥に流れる永遠ということにも繋がるような意識、そして良い意味での孤独ということに対する胸がちくちくするような憧れ、そんなものを表現している。私には感じられる。
 「天井に」という言葉の役目は何であるか。この言葉が句の内容を、血肉を持ったものとして存在せしめている。「宮本武蔵冬の蜂」だけでは単なる想念であるが、「天井に」があることによって、この想念が作者の血肉であることを読者は感じることができる。
 「天井に」「宮本武蔵」「冬の蜂」という殆ど名詞だけの並列によって高度の精神世界を表現し得ているこの句は、完成された俳句の一つの姿である気がする。

 ただし、宮本武蔵という人物に対する共感や理解がなければ、この句の理解は浅いものになるだろう。女性には不向きな句かもしれない。
 宮本武蔵と言えば二刀流ということが思い浮かぶ。大小二刀の使い手。あるいは文武二刀の使い手。あるいは現世的なもの、瞑想的なものの二刀の使い手。どこか金子兜太に似ていなくもない、と私は思っている。

武蔵晩年自画像
(島田真富氏蔵)

http://homepage3.nifty.com/gochagocha/より


537/tougokushou 82

句集『東国抄
7 
六十九句

サングラスのパブロピカソに蜜蜂
平成7〜平成12
1995~2000
76〜81歳
鑑賞日
2005年
12/1

 行ったことはないが、南フランスだとか、どちらかといえばスペインの明るい日差しを感じる。
 この句も「蜂」が登場するが、蜜蜂なので、それがパブロピカソの実りある人生を象徴している感じである。明るい光の中、花々から蜜を集め続ける蜜蜂と、天から与えられた才能と技を思う存分に楽しんだピカソには共通点が多い。
 昨日の鑑賞で、宮本武蔵は兜太に似ていなくもないと書いたが、このパブロピカソも兜太に似ていなくもない。特に、両者の、個性を開花させた豊かな作品群を思うときに、そう感じるのである。


538/tougokushou 83

句集『東国抄
7 
六十九句

明石原人薄暑のおのころ島往き来
平成7〜平成12
1995~2000
76〜81歳
鑑賞日
2005年
12/2〜4

 句集『東国抄』末尾の句である。そして末尾の句に相応しい内容である。
 まず「明石原人」と「おのころ島」を説明しておこう。

 【明石原人】・・1931年(昭和6)に兵庫県明石市の西八木海岸で直良(なおら)信夫(1902-1985)が採集した腰骨をもとに想定された化石人類。原骨は戦災で焼失したが、長谷部言人(はせべことんど)が命名。のち新人に属するとされた。(大辞林より)
 【おのころ島】・・日本神話でイザナギ、イザナミの二尊が天浮橋に立って天の沼矛で滄海を探り引き上げた時、矛先からしたたり落ちる潮が凝って出来たという島(自凝島)。すなわち、日本国のこと。(広辞苑などより)

とある。すなわち「明石原人」は科学的な立場から見た太古の人間であるし、「おのころ島」は神話上の日本国である。このことを頭に置いて、明石原人がおのころ島を往き来している姿を思い描くと妙なる気分になる。科学的事実と神話的事実の融合とでも言えるような気分である。そして「薄暑」という言葉が、明石原人がおのころ島を往き来しているという事柄に強い現実味を与えている。
 私にはこの明石原人が作者の自画像のように思えてくる。なぜなら作者は神話的現実と科学的現実、言い換えれば詩的現実と世間的現実の両方を上手に歩いている気がするし、内面に於ては現代人が失ってしまった原初の無垢な感覚を有していると思うからである。二十一世紀初頭の日本に居住し、内面世界・外面世界、太古から現代にいたる時間を自由に往き来している詩人兜太の姿である。
 句集『東国抄』の充実ぶりは大したものである。この句たちは、この句に表明されているような世界の大きな把握、そこを自由に原初的な感覚を失わずに歩くという態度から自ずから生れて来たものなのかもしれない、と思うのである。

12月3日

 刊行されている金子兜太の句集の最後の『東国抄』の鑑賞が終って、これでこの「金子兜太全句集鑑賞」は一応終りになるが、私はさらに「句集後」と題名を変えて鑑賞を続けて行きたいと思っている。何故ならこの「金子兜太鑑賞」は私のライフワークの一つの中心に位置するものになってきているので、止めたくないという思いが強いのである。
 最近、私のライフワークとは何かと考えてみた。私は結構様々な事をやっている。いわゆる百姓仕事はもちろのこと、絵を描いたり、俳句を作ったり、俳句会をやったり、最近では料理などもよくするようになった。私のやっている事、その態度などを統合して考えると〈安上がりに豊かに生きる〉というのが私のライフワークではないかと思えてきている。そして俳句やそれにまつわる様々な事はこの〈安上がりに豊かに生きる〉という命題を満たすのに格好の道具である。自分や自然を見つめ、表現することの充実感。他者の優れた句を鑑賞することの妙なる愉しさ。俳句という媒体を通しての他者との交流、それによる句友達との共生感。数え上げたらその功徳は限りがない。しかも基本的には紙と鉛筆一本でできる安上がりな仕掛けである。
 元来寝坊の私がこの俳句鑑賞は毎朝5時起きでやっている。何にも煩わされないで集中してやりたいから朝やるのであるが、早起きしてやるだけの魅力がある作業であるということであり、私の生活を豊かなものにしてくれているのは確かなことである。
 金子兜太の鑑賞の他にも、芭蕉をはじめ何人かの俳人を取り上げて鑑賞してきた。これからも興味ある俳人を取り上げて鑑賞してゆきたいと思っている。しかし、金子兜太の鑑賞は私にとって別格である。彼が私の師であるということもあるが、彼の俳句そのものが私には別格なのである。他の俳人もそれぞれ魅力があるのであるが、金子兜太ほどの全体性はないような気がしているのである。言い方を変えれば、他の俳人は私の部分で付きあうことができるが、金子兜太の場合は私の全体をぶつけていかなければ鑑賞出来ないということである。それだけ彼の在り方はトータルなのである。
 芭蕉は私に安らぎを与えてくれる。私の在り方を肯定してくれる。「おまえはそれでいい」と言ってくれている。彼は私を支えてくれている。もっと厳密に言えば、芭蕉は私の過去を支えてくれている。兜太はどうか、彼は私の未来を支えてくれているような気がするのである。芭蕉的なものから兜太的なものへの歩み、それが私の歩みであるような気がしているのである。

12月4日

 この金子兜太鑑賞を続けるに当って、思い出されてくる一つの経験がある。それは約三十年前に私が書いた小文「私のインド旅行」にも書いてあることであるが、次のような経験である。

 ある時、アリ・アクバル・カーンの演奏を見に行った時の事である。楽曲はサロッド奏者であるアリ・アクバル・カーンとその弟子の太鼓奏者の掛け合いのような即興演奏で進んでいくのであるが、その曲の途中でサロッドの主要弦が切れてしまうというハプニングが起った。西洋音楽の場合は此処で完全に音楽はストップしてしまう。しかし、アリ・アクバル・カーンは慌てなかった。彼は他の一人の弟子を呼んで弦を張り替えるのを手伝わせながら音楽の流れを少しも中断しなかったのである。残る弦でそれなりの音を奏でながら弦を張り替えたわけである。このことは即興音楽の強みでもあるが、彼の音楽センスと彼の生きる姿勢によるものが大きいを私は見ている。弦を張り終えた彼は、再び弟子の太鼓奏者との絶妙な対話を続けてゆき、音楽は完全なる終焉を迎えたのである。私にはこの弦が切れるというアクシデントがこの音楽全体をより完全なものにしたような気さえしたのである。さらに言えば、楽曲が終った後にも本質的な音楽は続いていた。物理的な音は無くなってしまったが、より精妙ないわば永遠の音楽に彼は聴衆を導いてくれたような気がするのである。その音楽は今も私の中で鳴っていると言える。

サロッド

 さて、この金子兜太鑑賞はいつ終るのであろうか。私、あるいは金子先生の弦が切れてしまった時である。・・・しかし、この金子兜太鑑賞は終らない・・・ 言葉は発せられないが、読者の中に永遠性というものの質が響き続けて行くような、そんな鑑賞でありたいと私は祈っている。
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 具体的にどのような形をとるかというと、幸い私は『海程』に所属させてもらっているので、『海程』誌がほぼ毎月送られて来る。そこに金子先生が句を出されているので、その句達を対象にして鑑賞を進めていきたいと思っている。

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