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金子兜太全句集鑑賞273〜283 (『早春展墓』1〜11)

273/soushuntenbo-1

句集『早春展墓
旅1

あおい熊チヤペルの朝は乱打乱打
昭和48〜49
1973〜1974
54歳〜55歳
鑑賞日
2005年
1/24

 今日から『早春展墓』の鑑賞に入る。この句集は五つの章に分かれていて、それぞれ「旅1」「旅2」「美童」「早春展墓」「山峡賦」と題名が付いている。全部で九十一句の短い句集である。

 この句。北海道への旅の時の句であろうか。鳴り響く教会の鐘の音が句から飛び出しそうな威勢で聞こえてくる。「あおい熊」ということで、広々とした青い北海道の原野なども見えてくるし、実際にその原野から教会を打ち眺めている熊の姿も想像される。色彩感覚と聴覚のよくはたらいた句である。


274/soushuntenbo-2

句集『早春展墓
旅1

骨の鮭アイヌ三人水わたる
昭和48〜49
1973〜1974
54歳〜55歳
鑑賞日
2005年
1/25

 「あおい熊」という言葉が上五にある句が五句ならび、次に「骨の鮭」という言葉が上五にある句が六句ならんでいる。ここに掲げた句などはその「骨の鮭」の連作の中で読んで、いいなと思ったので取り上げてみたが、こうして一句だけ眺めてみると、どうもよく分からなくなってくる。「骨の鮭」が分からなくなってくるのだ。まず、この連作を並べてみる

 1 骨の鮭アイヌ三人水わたる
 2 骨の鮭夜明けの雨に湖(うみ)の肉
 3 骨の鮭アイヌの母子に茂りの木
 4 骨の鮭湖(うみ)の真乙女膝抱いて
 5 骨の鮭山越す人ら野に墜ちる
 6 骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ

 このように連作として眺めると、1が良く分かるのである。つまり連作として見ると「骨の鮭」が通奏低音のように働いていろいろな場面が展開していくと取れるのである。そういう意味では、2・3も1と同じように好ましい句なのである。しかし、一句だけ取り出してみると「骨の鮭」があまり響いてこないのである。強すぎる言葉なのかもしれない。しかし、次の鑑賞で取り上げる6番の句は一句として十分に響いてくる。そして素晴らしい。


275/soushuntenbo-3

句集『早春展墓
旅1

骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ
昭和48〜49
1973〜1974
54歳〜55歳
鑑賞日
2005年
1/26

 言葉のはたらきの領域は三つに分けられる。

一番目 何の意味もなく、ガラクタのような言葉の領域
二番目 意味があり、感覚や感情の表現をともなう言葉の領域
三番目 普通言う意味での意味はなく、言うならば意義のある言葉。感覚や感情の表現をともなわないが、存在そのものの質を帯びているような言葉の領域

 一番目、二番目、三番目といくにしたがって、より精妙で深い領域になる。普通、私達が日常使っていたり、句作や創作に使う言葉は二番目の領域に属する。創作作品や俳句作品で三番目の領域まで踏み込んだ作品は稀である。そして私は思うのである、この掲出句はまさに、この三番目の領域にまで踏み込んだ作品だと。
 「骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ」、通常の意味はない、感情もない。感覚があるといえば、このような感覚がある、とは言える。しかし、感覚だけではなく、もっと存在そのものことを言っている感じが私にはある。存在そのものの光が、この句にはあるのだ。
 そして不思議なことにこの句には作者自身の影がない。あるのは世界だけである。「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」や「人体冷えて東北白い花盛り」などでは自分と世界との関係が描かれていたわけであるし、そして両句ともみごとなまでに自己と世界との融合がなされているのであるが、同じくらいに名句であるこの「骨の鮭・・・」には自己の影が無いのである。そういう意味ではこの句は、日常から飛翔した精神体験の句であると言えるかもしれない。
 自分を無にして世界を見るなどと〈客観写生〉を言う人が容易く言うが、この兜太句を見ていると、彼らの言うことがちゃんちゃら可笑しくなる。彼らには自分を無にするということの真の難しさが分かっていないのだ。それほどこの兜太句には、自分を無にするということのすさまじさが出ている。もちろん兜太は自分を無にせよなどとケチなことは言わない。自分が有るならそれを出すのが良いと言うだろう。そしてその自然の流れの中で、このような無自己の句が生れてきたのである。
 最後にもう一度、自己というものは無く、存在するのは世界だけである。そういうことをこの句に感じるのである。〈存在の詩〉である。


276/soushuntenbo-4

句集『早春展墓
旅1

馬遠し藻で陰洗う幼な妻
昭和48〜49
1973〜1974
54歳〜55歳
鑑賞日
2005年
1/28

 人間の歴史の中でどの時代が一番好きか、と問われたら、私は間違いなく「狩猟時代」と答えるだろう。ものを蓄え得るという生産形式ではないから、貧富の差がなく、人間が人間を支配するという仕組みにはなっていなかった時代である。人々は荒々しい自然に立ち向かわなければならなかったから、その結束は強く他者を大事にし得た時代だと私はかってに思っている。そこでは馬や犬も人間の大事な伴侶として飼われていたに違いない。何故こんなことを書くかというと、この句から受ける印象がそのような時代の風景に思えるからである。だからこの句は私の郷愁を誘う。


277/soushuntenbo-5

句集『早春展墓
旅1

鴎やわらか妻よろこんで日だまりへ
昭和48〜49
1973〜1974
54歳〜55歳
鑑賞日
2005年
1/29

 ふわあっとした、言いきらない、リズム感が内容をのせて漂っているような美しい句である。


278/soushuntenbo-6

句集『早春展墓
旅1

くろくなめらか湖の少女も夜の妻も
昭和48〜49
1973〜1974
54歳〜55歳
鑑賞日
2005年
1/30

 〈湖〉は[うみ]とルビ 

 「湖の少女」というのは私には湖そのもののことのように思える。あるいは湖の精霊のようなものを表現したように思える。少女のような湖も夜の妻も黒くなめかである、というのである。277の句では妻は空気の精霊のように軽く明るい光にみちていた。この句では妻は夜になると湖の精霊のように黒くなめらかであるというのである。妻をあるいはもっと広げて伴侶を、気体や液体のように感じられるというのは、その関係が自由で愛に満ちているということの証拠である、と私は見ている。だから句にも自由というものの帯びる艶がある。


279/soushuntenbo-7

句集『早春展墓
旅1

アイヌ秘話花野湖水の藻となるや
昭和48〜49
1973〜1974
54歳〜55歳
鑑賞日
2005年
1/31

 「花野が湖水の藻となってしまうのだろうか、というようなアイヌ秘話がある」とも取れるし、「語り伝えられてきたアイヌ秘話も花野の湖水の藻のように忘れ去られたものになってしまうのだろうか」というようにも取れる。いすれにしてもアイヌ秘話が花野の湖水のように神秘的で美しいものに感じられる。同時に失われゆくプリミティーブで美しい文化を惜しむ作者の気持ちが感じられる。


280/soushuntenbo-8

句集『早春展墓
旅1

海とどまりわれら流れてゆきしかな
昭和48〜49
1973〜1974
54歳〜55歳
鑑賞日
2005年
2/1〜6

 とても好きな句である。平明な言葉がゆったりとしたリズムで連なり、マントラのように口ずさんでいると、とても気分が良い。そして深い意味がだんだんと掘り起こされて来る。
 私はこの『早春展墓』で一句を挙げるとしたら、この句を挙げたい。「骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ」や、あとから取り上げる「光の中に腕組むは美童くる予感」においては、とても研ぎ澄まされて高みに飛翔したような感覚の冴えがあり、しかも美しい映像を伴っているので、こちらの方をこの句集の代表作に挙げたい人もいるだろう。だからこれはもう好みの問題なのだが、私はこの句を挙げたいのである。あえて言えば、好みの問題だけとは言えないものもある。たとえば兜太は、その生きる姿勢として「定住漂泊」ということを言うが、私はこの句を読んで「定住漂泊」というのはこのようなことなのではないか、という実感を得るからなのである。つまり、この句には兜太の生きる姿勢が表現されているのではないかと思う節もあるのである。そういうことになれば、この句は『早春展墓』の代表作というに留まらずに兜太全句の代表作の一つとさえ言える。
 そして更に付け加えさせてもらえば、これだけ平明でしかも深く広い真理を譬えとして含んでいる句は歴史的にみても、とびきり第一級の名句であるとさえ言える。

2月2日

 確かに漂泊感があるのだが、放浪感ではない。たとえば「無神の旅あかつき岬をマッチで燃し」に代表されるような個我の旅ではない、ということである。「無心の旅・・・」では胸のあたりがツンとするような自我のせつなさのようなものが感じられるのであるが、この句においてはもっと大きな流れに身を任せた“大安心”を伴った漂泊感のようなものが表現されている。
 「人生は旅である」、これは紛れもない事実である。しかしこの言葉は往々にしてセンチメタルな無常観を伴って使われる事が多い。そして「漂泊」という言葉も右へならえでセンチな感じで使われる言葉である。たとえば「漂泊の人生」などと言うと、どこか不安定で儚い感じを伴う。私は兜太の「定住漂泊」という事を、このような目で見たくはない。“大安心”の流れに乗った感じ、そう見たいのである。この句がそのことを証明していないだろうか。

2月5日

 「海とどまりわれら流れてゆきかな」の「し」を私は単純に強めの言葉と取っている。私より古典文法に詳しい息子に聞くと、そのような使い方はないという。これは過去を表わす助動詞「き」の連体形である、という。調べてみると文法的には確かにそうなのである。つまり「海はとどまりわれらは流れていったのだなあ」という意味になる。私の最初の感じ方では「海はとどまりわれらは流れていくのだなあ」という意味になる。そして私は自分の感じ方をあえて曲げないことにした。詩は文法をはみ出す事があるということで了解したい。これはたとえ作者の意図と私の解釈が違っていたとしてもかまわないとさえ思っている。それならはじめから「海とどまりわれら流れてゆくかな」とすればどうか、やはりこれではつまらないのである。
 「し」を過去を表わす「き」の連体形ととると、句が理屈っぽくなり、句柄が小さくなってしまう。一方私の解釈で読んでいると、雄大でスケールの大きな句となる。

2月6日

 「海はとどまり」そして「われらは流れてゆく」のであれば、普通に考えればそこに分離感があるのだが、この句にはそれがない。「われらは流れてゆくけれどもやがては帰ってくる」という感じがするのである。この句では海が主体であり、われらはわき役であるという感じがする。海はいつでもここに在る。われらはかつて流れていった、そしてこれからも流れてゆくだろう。しかし海はいつでもここに在り、われらは必ずやここに帰ってくるだろう、という感じがするのである。海は絶対の異名であり、われらは相対の異名である。


281/soushuntenbo-9

句集『早春展墓
旅2

姉いつか鵜の鳥孕む海辺の家
昭和48〜49
1973〜1974
54歳〜55歳
鑑賞日
2005年
2/7

 『早春展墓』の旅2と題された章には鵜の鳥が出てくる句がたくさんある。

 海へ落石鵜が見るときは音もなく
 眼鏡に鵜風浪の夜を待つごとく
 風のなか姉妹の秘事も鵜の鳥も透く
 姉いつか鵜の鳥孕む海辺の家
 虹多き越前唖の鵜にはぐれ
 覇者ありや海に無数の鵜の頭
 日暮れの鵜人の足指くわえてゆく

 13句中7句もある。この海岸は鵜が印象的に多いのだろう。この辺りに住んでいる人は殆ど毎日毎日が鵜との交感の中にあり、鵜というものが自分の肉体や霊魂の一部とまでなってしまうことであろう。ある土地に定住するということはそのようなことである。この句はそのようなことを詩的に表現しているのだと思う。


282/soushuntenbo-10

句集『早春展墓
旅2

雪の海底紅花積り蟹となるや
昭和48〜49
1973〜1974
54歳〜55歳
鑑賞日
2005年
2/8

 美しさと同時に哀しさのある句である。
 この句の舞台となっている越前(福井県)は紅花の産地だったらしい。紅花は化粧用の紅の原料になったらしいが、その花の額には刺があり、摘む時に血を流すほどの労働をしなければならなかったと聞いたことがある。この花摘みの仕事は主に女達の仕事だったと聞いたこともある。その土地に生れ、その土地でできる生産活動に携わりながら一生を過し死んでゆく。これは美しいことでもあり、また哀しいことでもある気がする。土俗的な哀しさ、とでも言おうか。飛躍して、人間存在の哀しさと言っても良いものだろうか。

紅花
http://www.sachio-yoshioka.com/2002jp/shizen/より転載


283/soushuntenbo-11

句集『早春展墓
美童

光のなかに腕組むは美童くる予感
昭和48〜49
1973〜1974
54歳〜55歳
鑑賞日
2005年
2/9~

 「美童」という言葉の含まれる句が八句あるが、そのうちの一句であるこの句の「美童」は特別の存在感・特別の輝きのようなものがある。こんなに飛躍した譬えを使って良いか、たとえば神の化身というような趣さえこの「美童」にはある。さて、句とは関係ないような話になっていくが、関係あるのでしばらくの辛抱を。

 ラーマクリシュナという人物がいた(1834〜86)。彼は私にとってはとても大切な人物である。彼との最初の出会いは、故山尾三省氏の詩の中の次のような一節による。「・・・神を求めて泣きなさい、とラーマクリシュナが言った、と長沢が言った・・・」という一節である。この出会いから始まって、私はラーマクリシュナに関するたくさんのものを読んだりした、そして結局私がインドを放浪することになったのもラーマクリシュナがいたということが大きな要因であったのである。
 ラーマクリシュナは紛れもなく人間の歴史に屹立した輝く存在である。これはキリストやブッダやモハメッドと同じような意味でである。このようなクラスの人は、その時代に強烈なメッセージを持って出現する。ラーマクリシュナのメッセージはどのようなものであったのか次に書きたい。

山尾三省・・・最後は屋久島に在住した百姓詩人
長沢哲夫・・・現在トカラ列島諏訪の瀬島に住む漁師、詩人

2月10日

 「全ての宗教の目指しているものは同じである」、もっと広げた言い方をすれば「生きとし生けるあらゆるものの求めている究極の地点は同一である」というのがラーマクリシュナの主要なメッセージの一つである。彼はこの事を学者のように論理的に証明したのでもないし、博愛主義者のように単に希望を述べたわけでもない。彼が素晴らしいのは、彼の実人生の体験をもってして、この事を証明してみせたところである。
 彼は、日本暦で言えば江戸時代から明治にかけて、インドカルカッタの郊外ダクシネスワールにある寺院の司祭として五十二年の生涯を送った人である。彼は外見には、その主祭神をカーリー女神とするヒンズーの祭司なのであるが、彼の暴風のようなその霊的体験の人生に於て、彼は全ての宗教はたった一つの真理に到る過程に過ぎないのだ、ということを経験するのである。
 私は、このラーマクリシュナのこのたくさんの霊的経験の中の一つをこの「光のなかに腕組むは美童くる予感」という句から思い出したのでそれを次に述べたいと思うのである。

 なおラーマクリシュナに関して詳しいことを知りたい方はhttp://www.vedanta.jp/にアクセスしてみて下さい、たくさんの書籍などを扱っています。その他ロマン・ロランの「インド研究」(みすず書房)なども参考になるかと思います。また、直感力の優れた人は彼の写真を見て彼の人間性(霊性・神性と言ってもいい)を感受することができるかもしれないので彼の写真を三枚載せることにしました。

一番知られている写真であり、いかにもバクタ(愛のヨギ)らしい眼差しが印象的である。
ケーシャブ・チャンドラ・センの家でのスナップである。忘我の境地にあり、支えられなければ転倒してしまう可能性があるので弟子が気づかっている。手は自ずから印を結んでいる。
比較的平常心に近い雰囲気の表情の写真である。(手は印を結んでいる)

2月11日

 次はロマン・ロラン著「ラーマクリシュナの生涯」(みすず書房刋・宮本正清訳)からの書き抜きである。

 ・・・・それから、ある午後、ダクシネスワールの林で、美しい大きな眼、物静かな眸、白い顔をした一人物が自分の方にくるのを見た。彼はその魅力にかかった。それが一体誰だか知らなかった。未知の客は近づいた。一つの声がラーマクリシュナの魂の置くで歌っていた。
 「キリストはきませり、彼は人々の罪をあがなわんとておのが心の血を流したまいぬ。ここにきませり、彼らへの愛のために、海のごとき苦しみを苦しみたまいぬ!ヨーガ行者の師は彼なり、神との永遠の結合のうちにあり。こはイエスなり、愛の権化なり・・・」
 「人の子」(キリストのこと)はインドの見神者、「母」の子
(筆者注・カーリー女神はラーマクリシュナにとっては母である)を抱擁した。そして彼の人格の中に溶け入った。・・・・ 

 私はこの句「光のなかに腕組むは美童くる予感」を読んで、上のラーマクリシュナとキリストの出会いの場面を連想したのである。それだけこの「美童」という言葉には、この世ならぬ美しい質が具わっているのである。
 この「金子兜太全句集鑑賞」のどこかで以前、兜太が神との関係を結ぶとしたら友人関係だろう、という意味のことを書いた。だから彼は、光りの中に腕を組みながら待つのであり、この邂逅もラーマクリシュナの場合などと違ってもっと穏やかなものになっているのである。また宗教者と詩人との違いということもある。

2月12日

 さてこの美童の句をもってこの『早春展墓』の鑑賞を終りにすることにするが、この句集の圧巻はやはり次の三句である

 1) 骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ
 2) 海とどまりわれら流れてゆきしかな
 3) 光りの中に腕組むは美童くる予感

 三句ともが宗教的色彩を帯びていて、それぞれがそれぞれ違う光りに満ちている。1)は世界の一元論的絶対空間の把握であり、3)はその絶対空間において愛の結晶作用の可能性の明言であり、2)はこの空間において私達はいかに生きていくべきかということを美しい旋律でうたい上げている。
 この「金子兜太全句集鑑賞」もこの筑摩書房の「金子兜太集ー第1巻」のページ数からすれば、たいたい半分まできた。これほどの魂の高みに達してしまった金子兜太という詩人がこれからどのような過程をたどって進んでいくのか先が楽しみである。

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