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金子兜太全句集鑑賞261〜272 (『暗緑地誌』27〜38)
句集『暗緑地誌』 |
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眼細め見よ神将に野に衆の暗み
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/11 |
〈武蔵野円空仏・七句〉と前書のある句の三句目 円空仏が好きだと書いたが、私の場合、それはただその快く潔く美しい彫りの線だとかが漠然と好きであったに過ぎない。そして今思えば、それは円空を興味本位で眺めて言っているに過ぎなかったと反省している。この句などを読むと、そう反省せざるを得ない。 |
句集『暗緑地誌』 |
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風音の矢か神将の平行衣文
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/12 |
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〈武蔵野円空仏・七句〉と前書のある句の四句目 この前書のある一句目二句目「汚れて小柄な円空仏に風の衆」「鼻くそも石となる空ら風円空仏」にしても、この句にしても兜太は円空仏に風を感じたに違いない。そこが、私が円空仏に感じていて言葉にならなかった部分でもある。とても重たくて厄介な素材である木などに風を表現することなど、とても私には難しく思える。それが出来たのは、鉈削りという技法で素早く風の如くに彫ったからに違いないし、本質的には円空自体の存在が風のようだったといえるのだと思う。
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句集『暗緑地誌』 |
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木は仏に円空自体はついに見えず
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/13 |
〈武蔵野円空仏・七句〉と前書のある句の六句目 円空というと、この薬王寺にある十二神将に代表されるような潔い彫りの彫刻が浮かんでくる。まろやかな線の彫刻もあるが、そういうのは他の人も作っているので特に円空仏としては思い浮かばない。そしてこの十二神将などは、まさに木が風の力によって仏になったような印象を受ける。煩悩を備えた人間としての円空自体は見えてこないのである。まさに風か忍者かのように仏を彫ると野に去って行ってしまうのである。 この十二神将に代表されるような円空の境地を思うときに、立派だなあ、潔いなあと思う反面、人間存在がこんなにも立派に潔くなり得るということに恐ろしさをも感じ、私にはなれないなあという思いがある。であるから、十二神将などは間違いなく円空の代表作であると私は思うが、岐阜の神明神社にある次の自刻像などを見るとき、ある意味で私はほっとするものがある。 このいかにも人間的な祈りの自刻像を彫る円空、そして十二神将を彫る円空、この幅で円空という人間を考えると、円空がとても大きくまた親しみを持てる存在として、私は円空がよく理解できるのである。 |
句集『暗緑地誌』 |
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鷹影すぎ棺の岳父に冬の花
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/14 |
〈山峡(岳父の死)・十二句〉と前書のある七句目。〈棺〉は[ひつぎ]、〈岳父〉は[ちち]とルビ 岳父の死、すなわち妻の父親の死に際しての十二句の中の一句である。十二句の中でもこの句は岳父の人格を偲ばせるに十分な品格があり、押さえた悲しみが出ているように感じた。〈山峡〉とあるように、この岳父は山国での暮しだったのであろう。その飾らない高潔な人柄と、押さえた心根の優しさのようなものが「鷹影」「冬の花」という言葉から私は感じられる。男の死に際して涙は無用であろう。ましてや、押さえた優しさを持つ男性的な人なら「照れ臭いから止めてくれ」と言うだろう。しかし、どうしてか私は涙が溢れてきてしまうのである。 |
句集『暗緑地誌』 |
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睡くて睡くて菜の花ばかりで見えぬ敵
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/15 |
〈睡〉は[ねむ]とルビ この句の内容は、兜太の生きる態度を知る上でも、また私自身の生きる態度を確認する上でも、また一般的に出家者でない者の生きる態度はこうあるべきだということを論じる上でも貴重な句だと思ったのでいただいた。 |
句集『暗緑地誌』 |
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弓もつ少女が急ぐ陸橋星夜のテロ
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/16 |
ジャンヌ・ダルクのことを思い出した。彼女は片田舎でごく普通の素朴な生活をしていたが、いわば神の啓示によって数奇な運命をたどり、悲劇の英雄になったというのである。この句集『暗緑地誌』に次のような二句があった 少女の髪の雲脂は地中海のかもめ この素朴で純真な少女が、今テロに際して弓を持ち星夜の陸橋を急いでいるという連想が私には働いた。そしてこれはまさにジャンヌ・ダルクではないかと思ったわけである。いつの時代でも、その時代の危機を救うのは純真で素朴な心の持ち主である。この「幼な木」という章の冒頭の句「終りの桜青年は酔えぬ鳥であり」のように、もし男性達があまりにも現実生活にその心が干からびてしまって力が出てこないとしたら、この時代を救うのは、この句達に表現されているような女性かもしれないなどという夢想が出てくる。 |
句集『暗緑地誌』 |
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朝顔が降る遠国の無人の街
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/17 |
〈遠国〉は[おんごく]とルビ 不思議な感じのする句である。 |
句集『暗緑地誌』 |
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火山一つわれの性器も底鳴りて
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/18 |
素粒子というようなレベルでも、銀河宇宙というようなレベルでも、また生物・人間というようなレベルでも、この世の全ての物事は男性原理女性原理で動いている。陰陽と言ってもいい。この陰陽がからまりあって次々と新しい展開をしてゆくのが創造だと言える。さしずめ火山などは男性原理の象徴のような存在である。底に落ち着かないもやもやとしたエネルギーを絶えず秘めていて、時にそのエネルギーを放出せずにはいられない。人間における性的エネルギーもこれと似たようなものである。つまりエネルギーは最初から一つであり、火山活動も地震も、新しい星雲が生れることも、人間の性器の底鳴りもすべて同じエネルギーの顕現に過ぎない。 |
句集『暗緑地誌』 |
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樹といれば少女ざわざわ繁茂せり
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/19 |
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私達は個別にこの世界に放りだされた存在ではない。全ての存在物にはつながりがある。動物も植物も人間もありとあらゆるものはつながっているのだ。だから人間は人間以外のものと深い意味ではコミュニケーションが可能である。だから繁茂する植物の側にいれば、自分も繁茂してくる感じになるのは当然である。そして、このようなコミュニケーションは無垢でまだ感受性の鈍っていない少女などではより容易く可能であるように思う。・・・以上のような事が事実であるということをこの句を読んで再認識させられた。そしてこの句の少女は「少女の髪の雲脂は地中海のかもめ」「川まがることにも笑い落日少女」の少女でありまた「弓もつ少女が急ぐ陸橋星夜のテロ」の少女である気がしてならない。
この句を読んで、この写真と写真に添えられたアリス・ウォーカーのコメントを思い出した次第である。 |
句集『暗緑地誌』 |
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よく喋る老婆と子犬白三日月
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/20 |
『暗緑地誌』という句集は、様々な人物や様々な生のあり方に共感してゆく作者の受容性が発揮されている句集に思えてならない。「老婆」もそのうちの一つである。「燈下美貌」の章に次の連作があった 新婚をけらけら笑う老婆の旅 いかにもありそうな老婆の群像である。そして老人の孤独などが問題になっている現代においてはこのように健康で快活な老婆達にはほっとするものがある。このような老婆は一人でいるときも別に淋しくはない。掲出句のように、犬とでも三日月とでも交感できるのである。この句「白三日月」に童話的とでもいえるような雰囲気があって、老婆と子犬をふんわりと包んでいる感じがある。 |
句集『暗緑地誌』 |
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死火山に煙なく不思議なき入浴
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/21 |
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「死火山に煙なく不思議なき入浴」と当り前のことを言っているのだが、何か不思議感がありそして何か日常の意識とは違う感覚を持つ。
日常のありふれた事物である古靴をただ描いているだけなのだが、この靴には使用物としての靴を越えた何かがあり、この靴を通して私達は日常の意識を越えた何か違う意識に触れることができる。この意識についてああだこうだと説明はできないが、言えるのは、私達が日常暮していく中で現れる意識というのは私達の全意識の中の氷山の一角に過ぎないということである。 |
句集『暗緑地誌』 |
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両手挙げて人間美し野の投降
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昭和42〜47
1967〜1972 48歳〜53歳 |
鑑賞日
2005年 1/22〜23 |
投降とは敵軍に降参すること、と広辞苑にはあるが、わたしは単に降参することと意味を取りたい。そのほうが句の意味の幅がぐっと広がるからである。しかし、降参という言葉を直に使わないほうが良い。投降とは降参した瞬間のことである。 さて、この句で句集『暗緑地誌』の鑑賞を終るが、次に『暗緑地誌』全体を振り返って感想を述べてみたい。 1月23日 『蜿蜿』は旅の書である印象が強いと『蜿蜿』の鑑賞の最後に書いた。旅とは一人の個人が様々な風土や状況を経験しながら時を過して行くことである。旅という言葉のニュアンスから言えば、彼が経験する風土や状況は彼にとって過ぎ去って行くものであり、彼はその風土や状況では常に異邦人なのである。 |
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