精神病からの回復というのは、私がずっと関心を持っていた領域です。多分、それもロイヤルフリー精神科病棟へ足を踏み入れた、いや、無理矢理に連れられていったあの最初の日から。あれは、私と会って1時間もたっていない精神科医が、私が「精神分裂病」と呼ばれる精神病にかかっているという結諭を出した日のことでした。この1時間の面接が私の人生の全てを変えてしまいました。その面接までの私の人生が、素晴らしいものではなかったことは認めますし、実際、それまでの私はかなり淋しく不幸せな存在でした。
入院患者としての数ヶ月は、その全てを変えてしまいました。淋しく不幸せな存在から、うってかわって完全に孤独になりました。また、気持ちがひどく落ち込みました。それからの10年の私の人生は、精神医療システムにコントロールされてしまうものでした。そのころ、私は、義理の兄と初めて会ったのですが、「いったいこれは何て言うことだ?!」と思ったそうです。入院して5年経つ私を見た時の印象なのですが、どんなに私が惨めで酷い状況だったかを示していると言えます。私があまりに惨めな状態だったので、その状態から抜け出させるために、いっそのこと撃ち殺したいと思う程だったことを後から話してくれました。
精神医療システムというのは、避難所とはとても言い難いところで、治療のシステムは、他の沢山の人たちにとってもそうであったように、私にとっても恐怖の、そして病気の連続というシステムでした。他の沢山の人たちにとってもそうであるように、回復は精神医療システムの中では出会うことのできなかった過程でした。全く正直なところ、私が医療システムを離れるまでは、真の意味での回復への道は、私の人生の中になかったと言うことができます。
それは、まるで精神医療システムは私の回復を全く期待しておらず、その代わりにただ、生命の維持、管理に重きをおいているかのようでした。私は医療システムの中で働いていた人たちが私をケアしてくれなかったと言っているのではありません。確かに私に服を着せ、食事を与え、住むところを与え、私にきちんと服薬させました。ただ、欠けていたことがあり、それが、かつての私に戻ることができる可能性を考えなかったという点です。
この限られた時間の中ですが、回復は、ただ幸運な限られた人のためだけのものではなく、精神医療システムの中に入ったほとんどの人にとって現実のこととなるという可能性を皆さんと一緒に探りたいと思っています。新しいミレニアムに入るのですから、過去を反省し歴史から学ぶことが必要です。今日の話、そして私の著書「回復一異なる概念」では、それを行おうと試みています。今日の話、そして、この本は、学術的な話ではありません(それは、私が望むところなのですが。)これは、むしろ回復への模索であり希望的にはガイド/ガイドブックであり、多分、専門家、クライエント、ケア提供者が回復への道へ足を踏み出せるように勇気づける話となるでしょう。
私は、ここの聴衆/読者の皆さんが、現在のシステムヘの批判や機能しないシステムの中にいる人たちの痛みを感じるだけではなく、未来への希望、回復した人たちの感動、激励、そして、これからのミレニアムでは、回復を現実のものとできるという希望を感じてほしいと思っています。
■はじめに
個人的な話精神分裂病のはじまり
沢山のサービスユーザーが知っているこんなジョークがあります。「神と精神科医の違いはなに?」答:「神は自分を精神科医とは思っていないこと」あと、もう一つ大きな違いがあります。「神は万物の創造に7日間かかっているが、精神科医はある人の世界を1時間もかけずに変えることができる」という点です。回復の道が沢山の人にとって大変な困難が伴うとするならば、病への道はあまりに簡単だということができるでしょう。病への道というのは、生物学的な、或いは、科学的な一連の出来事ではなく、それまで取り扱ったことがなかった個人的な人生上の出来事が重なり積もったものであるということができます。
私白身の話をする前に言っておきたいのは、私の話というのは、精神医療システムの中にいたことのある、そして、今もその中にいる世界中の沢山の人たちの話とそう大きく違ってはいないということです。私は、精神医療システムの中にいるほとんどの人たちと比べて特に勇気があるわけでもありませんし、頭がよいわけではありませんし、私が、その人たちと、どこか違うというわけでもありません。私の話というのは、ごく普通の話であり、そのように受け取ってもらうべきことです。
今日の話を最初から聞いている/この文を最初から読んでいる人たちは、ロンドンの医者が私を精神分裂病だと診断したことをご存じなわけですが、私の話は、1983年の精神科医との強制された面接に始まるのではなく、それよりもっと前、実際には、1969年に遡り、その時、ローマカトリック教会の司祭になることを望んでいた少年の話となります。少年であった私が、11歳という年齢で司祭になりたいと思っていたことを、今、人に話すと笑われるのですが、そのころの私は司祭になるという考えに魅せられていました。
私は、ローマンカトリックを信じる労働者階級の家庭に育ちました。その時代の沢山の少年たちと同じように、私は、人生11年目にして宗教的なことに関心を持つ段階を迎えました。私は教区の司祭に会いに行き、司祭になりたいことを話しました。その時の私たちの教区の司祭は、年を取ってきており、礼拝は、英語でなくラテン語でもっと行うべきだと考える古い宗派に属している人でした。彼は、また、紛れもなく、自分は羊たちを導く羊飼いだと考えている、まさに神の子でした。群の中の羊が司祭になりたいと言えば、それを真剣に受け止めていました。私の司祭になりたいという願いを受け止め、やはり司祭になりたいと話した2人の少年と共に毎週1回、司祭と会うようになりました。毎週のミーティングの中で、教会の教え、司祭の役割、そして、司祭になるという、私たちが神の思し召しと考えていることが真のものであるのか、などを深く議論しました。そのようなある議論の後で、1人の少年は、神の思し召しではなく、ただ家族を喜ばせたかっただけだったと感じ、司祭になることをやめました。残った2人は、思いとどまることはなく、教育を受け続けました。いつか、司祭になるものだと信じて疑いませんでした。その頃は、私にとって幸せな日々でした。私は、神に仕える準備を整えており、これからの使命に対し、11歳の少年が持ちうる熱意でそれはもう一杯でした。そして、私の人生を変えたその日は、いつもと同じように始まりました。学校に行き、司祭教育を受けるために礼拝堂へと向かいました。家政婦がドアに出てきましたが、泣きそうになりながら、その日、司祭が重い病気にかかったこと、何とか命は取り留めたものの、司祭として復帰することはできないということを話してくれました。(それまで病気になることがなかった司祭に、いったい何が起こったのかとよく思います。そして、もし、こういうことが起こらなかったら、今頃、私は司祭になっていただろうかと。)このようなことが起きてまもなく新しい司祭が来ました。(ここでは、アドリアンと呼びます。)最初は、全ていつもの通りで、すぐに私は、緊張もとれて普段の生活に戻りました。私の知る限りでは、特に事件もなく3ヶ月が過ぎましたが、ただ一つ気付いたのは、何人ものミサの司祭助手が、普通、職務を終える年齢より早くやめてしまうことでした。
そして、すぐに司祭助手がやめていく理由がわかったのです。私は、ある日、アドリアン神父から教会のある部屋へ神父に会いに来るようにと言われました。私は、なぜ、神父である彼が私に会いたがっているのか、その理由が浮かばないままブラブラと歩いていきました。部屋に着いた時、アドリアン神父は私に座るように言いました。この時です。物事が変わり始めたのは…。神父は、まず私に、告白する必要のある罪はあるかと尋ねました。ないと答えると私のことを嘘つきだと言い、私が神に許されるためには、神父が私の罪に対して神の許しを乞うために祈らねばならないと言いました。神父は、私の横に脆いて大きな声で祈り始め、私が悪魔で、神父を罪へと引きずりこもうとしているというようなことを言っていました。祈り続けているうちに神父はうめき苦しみ始めました。そして、神父の手が少しずつ私の足の上の方に動いてきて、股の間を触り始めたのです。これが続くにつれて、私は、自分に何が起こっているのかの傍観者となっていることに気付き始めました。私のまわりのこと、例えば、蝋燭の炎がやけに明るいことや、司祭の服がいつもよりずっと紫色であったことなどに。私は、その場にいたわけですが、しかし、同時にいなかったわけです。虐待を受けた人たちには、私が言っていることを理解していただけるでしょうが、人生を経て、もっと後になって、これは、意識の分裂などと呼ばれていること(dissociation)であり、虐待を受けた人が、白分を保護し守るために取る最も一般的な方法であるということを知りました。その時は、私に対する神の保護を感じませんでした。私は、心の中で、神に対して「やめて下さい!」と叫んでいました。そして、神に対して、「お守り下さい。助けて下さい」と叫んでいました。しかし、神は、耳が聞こえないのか、或いは、私の声が、神に届くにはあまりにも小さすぎたのか、神は私を守ってはくれませんでした。ことが終わった時、アドリアンは、もし私が、今、何が起こったかを人に言っても、誰1人として私のことを信じはしないと言い、私は、荘然としてその部屋を後にしました。そして、その日の出来事を、また、その後何日も続いたそのことを、決して人には話しませんでした。
私は、しばらくの間、この虐待のサイクルの中に囚われていました。いったい誰が、私を信じてくれるでしょう?アドリアンは、神父で、神と人問との間に立っている人です。地球で神の代理となっている人で、罪を許す人であり、良い羊飼いなのです。私は、11歳の少年で、夢を抱いており、これについて何かを言えは、「嘘つき」という汚名をきせられることになってしまうのです。私が信じていた神との関係というのはなくなりました。私が完全に教会、そして、神に背を向け、逃げる力をどうにか見つけだすまでの数ヶ月に渡って、この虐待は続きました。私の神聖な、宗教的な段階は、終わってしまったのです。その後、時間が経つ中で、私は、これが虐待者の持つパターンであることを知りました。そのパターンとは、虐待者は、地域社会で信頼される地位についていることが多く、この地位を、惨めさと痛みの中での、この邪悪な取引を強いるのに利用するということです。私は、自分の体験の中から、虐待にきちんと対処できずにいると、その虐待は、一生を通して自分についてまわり、それからの人間関係という面で人生に様々な影響を与えてしまうということを知りました。これは、特に友人、そして、人生の伴侶を信じることができるかという事に影響してしまいます。他でもない、この出来事が、私の人生を形作り、そして、病を引き起こしたのだと言わねばなりません。
もし、これが、私が乗り越えなくてはならない、人生における唯一のトラウマ(心的外傷体験)であったのなら、きっと私は、それを無事に乗り越えて、かなり普通の生活を送ることができたでしょう。これは、またよくあるケースなのですが、私が、人生におけるある分岐点を曲がったな、乗り越えられたなと思った時に、人生が、また、邪悪な手を伸ばしてきたのでした。大人になるに至って、私は、虐待を受けた体験を過去のものとして整理をつけていきました。いや、私は、少なくともそう思い、生活のために仕事をしていました。こうやって人生をそれなりに送っていた時でした。私は、アナベルに出会ったのです。私は、ある土曜日の夜、ラグビーの後に行ったパブで彼女と出会いました。私は、彼女を見た時に、一目ぼれとは何かがわかりました。精神病的な体験、見えたり聞こえたりする体験は、誰かを愛しているということとは関係ないことですが、愛は紛れもなく、真の意味で精神病的な体験です。アナベルは芸術家で彫刻が専門でしたが、絵も描きましたし、スケッチもしました。私たちが一緒にいたその短い間に彼女は、色々なことを教えてくれました。愛とは何であるのか、男女がどのように愛するのかというその営み、そして、一番重要なのですが、どのように人生を愛するのか、ということです。そのような様々なことを教えてくれました。また、芸術、例えば、クラシック音楽、オペラ、演劇を味わうことを教えてくれました。彼女と共にいたから、人生を豊かにする精神的な次元のことを発見するようになりました。これは、宗教ではなかったわけですが。
私たちの関係は、急激に発展し、新しい恋人の熱烈な情熱から、まさしく魂と魂が結びつくような魂の仲問が燃やすような情熱になっていきました。私たちは2人でできる限りの時問を共に過ごしました。カップルが行うように、私たちもよく夜遅くまで起きて話をし将来の計画を立てたものです。私たちは、2人一緒の生活、人生を計画していました。これは、最も良かった正常な状態でした。しかし、正常な状態とは全てそうなんだけれど、そこには、狂気が潜んでいて、私たちを襲い焼き尽くす機会を窺っていたのです。そして、ある日、それは起こったのです。
私がアナベルに出会った日のように私たちの関係が終わったのも土曜日でした。私は、ラグビーをした後、2人で食べるものを持って家に帰ったのです。家に帰り着いた時、アナベルにお茶かコーヒーを飲まないかと声をかけたのですが、返事がありませんでした。居間に行くと彼女はソファに横たわっていました。もう一度尋ねましたが、返事がありません。そこで、彼女を揺さぶりましたが目を覚ましませんでした。私は、慌てて家から飛び出し、近所の家に行き、救急車を呼ぶようにと頼みました。彼女は、病院に運ばれ、救命機器につながれましたが、それに対してうまく反応することもなく、3日後に死亡が言い渡されました。アナベルは白ら命を絶ってしまったのですが、私は、それが何故だったのか、よく分からないままです。しかし、私は、自分を責めて責めて、自分自身、何故責めるのかも分かりませんが、白分を責めるのをやめるまでには、何年もかかりました。
彼女が死んでしまった時、私の大きな一部も死んでしまいました。私は、感情的に巻き込まれるような関係は、もう決して誰とも持たない。と誓いました。他の多くの人々のように、私は、アナベル、そして、その死に対しての私の感情全てを抑圧しました。私は、人が生活と呼んでいるものと似たことを続けていました。虐待についてがそうであったように、私は、それがまるで起こらなかったかのように振る舞うことにしました。そして、虐待についてがそうであったように、嘆きと喪失という感惰、そして、世界への憎しみが、私の中で膿んで大きくなり、また、私をむさぼり喰う機会を窺い始めました。
感情が私を圧倒する時が、私がラグビー場で怪我を負い一生ラグビーができなくなった時に来てしまいました。まだ、松葉杖をついていたものの、退院し、かろうじて数週間過ぎた頃です、私が初めて声をきいたのは。事務所で、コンピュータに打ち込んだデータの結果が出るのを待っていた時です。背後から、ある声が、やり方が間違っていると言ったのです。後ろを見ましたが、誰もいません。私は、やっていたことをすぐにやめてパブに行き、酔っぱらいました。私は、白分がストレスを抱えていて休養を必要としていると思ったことを覚えています。
6ヶ月も経たないうちにその声に加えて、もう一つの声が、一日中私に向かって叫び続けるようになりました。私は、仕事に集中できなくなり、忘却の彼方に行くまで酔う時が唯一の心休まる時となりました。ついには、上司から生活の建て直しのために4週間が与えられました。4週間後、私は、仕事を失い、家も手放しつつあり、そして、(その時は知らなかったわけですが、)精神医療サービスに初めて出会おうとしていました。そして、すぐさま、乱れた髭を生やし汚い服を着て、素面でいるよりも酔っていることの方が多いという惨めな有様になっていきました。
ついに、それ以上そのような状態でいられなくなり、サマリタンズ(命の電話)に電話しました。色々と話をした後、一般医(英国の各地にいる一般医で、医療サービスヘの窓口となる。GPと呼ばれている。)に会いに行きました。その医師は、「専門家に診てもらえるようにしましょう。」という言葉で私の診察を終えました。「よし」と思ったものの、私は、専門家医に診てもらうまでには、しばらくかかると思っていましたから、自分の状況にとても驚きました。その医者は、私を診察室から出して、診療所の小さな部屋で待つようにと言い、数分後、看護婦を連れてきて、専門医との予約が取れるまでの間、その人が付き添って面倒を見てくれると言いました。待ち時間の中で私が覚えているのは、その看護婦がほとんど話をせず、まるで私と同じ部屋にいることを怯えているようだったことだけです。
3時問ほど後に、ようやく医者がもう1人の男性と戻ってきました。その男の人は、医者が連絡を取った専門医でした。専門医は、自己紹介をし、自分が精神科医であること、一般医(GP)が、私のことを心配して連絡をしたので会いに来たことなどを話しました。この時です。私が、まさしく、初めて、状態の把握のために1時間の診察を受けたのは。その面接の後、その精神科医は、私が病気であること、短期問入院した方が良いだろうと言うことを私に言いました。私は、その医者に、病院へ戻るにはどちらに行けばよいのかを言い、診療所から逃げました。3日後、私は、ロイヤルフリー病院に無理矢理連れて行かれ、もう一度、精神科の面接を受けさせられて結果的に精神分裂病にかかっているということになったのです。
その精神科医は、もし、薬を飲んだなら、声も、また、他の症状も完全になくなり、よくなるだろうと言いました。また、薬が効き始めるまで、2週間ぐらいかかり、元の白分に戻れるまでそんなに時間はかからないだろうと言いましたが、それは、間違いでした。2週間経ちましたが、全く良くなりませんし、かえって悪くなるほどでした。そこで、薬をやめて退院することにしました。その時です。この精神医療システムの本当の力に気付いたのは。私は、精神保健法の第2節(section2)により、白分の意思に反して28日間まで拘束されることになったのです。第3節(section3)は、治療命令で、拘束されるだけではなく、必要ならば強制的に薬物治療を行えるというものですが、これが、第2節に続いてすぐに適用されました。これは、私の新しい生活になりました。常に病気の周りに築かれた生活で、時々、短い間、地域の中で休養を取る(これは、決して健康に暮らすと言うことではありません。)という生活です。
それからのlO年のうち、6年を入院患者として過ごすことになりました。ほとんどが、精神保健法の第3節(section3)によるものです。この問、私は、40回もの電気ショック療法(ECT)を受け、市場に出回っているほとんど全てに近い抗精神病薬を試しました。けれど、私としては、心理療法を受けたかったのですが、精神分裂病には効かないからと心理療法は何度も拒否されました。このような大変精力的な治療体制にも関わらずきこえる声は、相変わらず悪意に満ちたものでしたし、薬物にしても少しも私に休息を与えてはくれませんでした。ついには、私の薬の量は、大変多くなり、法定薬物でしたが、ボーっとして、まるで霧の中から人生を眺める状態、ゾンビより少しましな存在、という自分になってしまったのです。精神医療システムが私に教えてくれた主なことは、どのように良い分裂病患者になるか、ということでした。10年間は、そのシステムから逃げ出す道を探すために、ただ過ごす年のようでした。それまでに、精神医療システムは完全な精神分裂病患者を作りだしたのです。そして、これからが、回復の時です。
■回復へのステップ
どのような回復の道にも始まりがあります。私にとっての始まりは、私のサポートワーカーであるリンジー・クック(LindsayCo7とのミーティングでした。1991年に始まったマンチェスターでのヒアリング・ヴォイシズ(一番下の注参照)のセルフヘルプグループに行くことを勧めてくれたのは彼女でした。セルフヘルプグループには、私にとって得るものがあると思っていたのは、私ではなく彼女でした。私の狂気の下にあるもの、そして、私の可能性を見いだしたのは、他でもなく彼女です。彼女の私に対する信念が私の回復を開始させたのであり、多大な恩を感じているのが彼女です。
他にも、旅を成功させるのに欠かせないことがあります。その一つが、あなた自身が希望する目的地へ向かって「操縦」できる能力です。これに関しては、私はとても幸運で、1人ではなく、沢山のナビゲーターがいました。ここでは、そのうち5人だけについて触れることにします。最初は、アン・ウォールトン(Anne Wa1ton)で、声がきこえる仲間です。彼女は、私が行った最初のヒアリング・ヴォイシズのグループで私に声がきこえるのかと尋ね、そうだと答えた時に、その声は、本当の声なのだと言った人です。皆さんは、このことをどうということはないように思われるかもしれませんが、この一言は、私が旅する方向を示
ているコンパスですし、回復の過程における私の信念の土台を支えるものです。
2番目がマイク・グリアソン(Mike Grierson)です。マイクは、私の声、そして、社会の両方への最初の接触を通して私の進むべき道を示してくれた人です。私が、精神医療システムとは、全く関係のない人たちと交流することを励まし、勇気づけてくれました。彼は、また、私を映画館やクラシックコンサートなどに連れて行ってくれました。これが、私の芸術を愛する心を呼び覚ましてくれました。マイクは、私の社会的なナビゲーターだっただけでなく、私の体験を探求できる方法で、声に焦点を当てることを助けてくれた人です。
3番目と4番目は、テリー・マクローリン(Terry McLaughlin)とジュリー・ドーンズ(Julie Downs)です。テリーとジュリーは、私を「正常な状態」に戻すためのナビゲーターでした。2人は、私の政治への関心に再び火をつけ、また、躊躇なしに、私を2人の家庭に招き入れてくれました。訓練と精神保健についての私の初期の考えは、テリーと共に発展させたものです。現在、ジュリーは、同僚で、精神保健の世界を探求するために我々が使っているトレーニングのセットを、一緒に開発し発展させています。
5番目は、ポール・べ一カー(Paul Baker)で、回復の道におけるもう1人のナビゲーターです。ポールは、ヒアリング・ヴォイシズのネットワークを英国に作った人で、そのネットワークに関わることを私に勧めてくれた人です。そして、丁度良い時期に声のグループの発展を私に任せてくれました。私のナビゲーター達、アン、マイク、テリー、ジュリー、そして、ポールに、私が気が確かでいられることに関して感謝しています。
ナビゲーター達には、どの方向に向かって導いていけばよいのかという地図や計画が必要です。私は、地図の制作者に関して、大変恵まれていました。地図作製者は、パッチー・へ一ジ(Patsy Hage)、マリウス・ローム(Marius Romme)、そして、サンドラ・エッシャー(Sandra Escher)です。この3人は、自分達が何を行ったのかきちんとは、理解できてはいないのではないかと私は思います。パッチーは、ジュリアン・ジェーンの本を読んだ時、パッチーが尋ねる質問が、実に沢山の人に影響を与えるのだと言うことをほとんど気付いていませんでした。彼女の質問事項のおかげでヒアリング・ヴォイシズネットワークとリゾナンス(オランダにあるヒアリング・ヴォイシズに似た活動をしているグループ)、そして、世界中の他のネットワークが現在、存在しているのです。彼女がその位置にいたいかどうかは分かりませんが、ヒアリング・ヴォイシズ運動の歴史の中で第一の位置にいる人です。
サンドラ・エッシャー(SandraEscher)は、疑いもなく普通の人もその作られた地図を理解することができるということを確かにした人です。誰にでも近づきやすい言葉によるメッセージとして分かりやすくした能力は、その功績が学術的な世界には残されてはいませんが、この活動の当初から声をきく人たちによって使われ続けています。サンドラとパッチーは、私の回復において実に重要な部分を担いました。
最後にお話しする地図作製者は、マリウス・ローム(Marius Romme)です。マリウスは、彼の言
葉によれば、典型的な精神科医ということですが、疑いもなく最も偉大な地図制作者の1人であり、彼に知り合えたということは、私にとって本当に幸運でした。マリウスが、パッチー・へ一ジ(Patsy Hage)に耳を傾け、何を言わんとしているのかを探究した時、典型的な精神科医ではなくなったのだと私は思います。彼が公の場で、声をきくということは、普通の体験であり、声がきこえると言うことは別に恐れることではないと初めて主張した時、典型的な精神科医ではなくなったのです。仲間から馬鹿にされ、批判されても仕事を続けた時に、典型的な精神科医であることをやめて、1人の偉大な精神科医になったのだと私は思います。
パッチー、サンドラ、そしてマリウスに対して、私は、ただ一つのことに関して感謝の念を抱いています。その一つとは、私の人生、命そのものです。
今まで、私は、回復の旅に色々な形で参加して下さった9人の人々についてお話ししましたが、その中に、回復への最初のステップがあります。そうです。人々です。もし、私の回復の過程に関わりその役割を果たしてくれた人々の名前をリストにしようとするなら、それはものすごく長いものとなるでしょう。このリストについてもう一つ付け加えたいことは、リストの中にある名前のほとんどが、専門家ではないという事実です。回復についての私の根本的な信念の一つは、回復は孤立の中では起こり得ないし起こらないという前提です。そして、回復は、もしすべての人間関係が専門家とクライエントの間の相互作用を基本としていたら起こり得ないということです。回復とは、全体であること(who1eness)と定義することができるのであり、もし、その人が住み、働いている社会から孤立しているなら、誰もその人の全体ではあり得ないのです。
何年にも渡り、私は、精神病などというものは存在しないのだと主張してきました。そして、過去、何年かに渡って人々と興味深い議論をすることになりました。その一つがマリウス・ロームとの議論です。議論の中で、マリウスは、生物学的な疾病のことを主張しているのではないことが明らかになりました。彼が実際に言わんとしていたことは、その個人が社会においてうまく機能できないということが、病として表されることがあるということでした。そういうことならば受け入れることができます。回復は、もはや医者から贈られる物ではなく、私たち全員の責任であることを意味するのですから。
これは、社会が精神的な問題のある人々の回復のために何らかの責任をとる準備があるのか、という質問を投げかけます。私は、この社会は、責任を取らないだろうという意見です。というのが、私たちのいるこの高度に洗練された文化の中では、メンタルヘルスについて生物学的な説明がなされ過ぎているからです。私の社会に対する期待が高すぎるのかもしれないと思いますが、この社会の背景の中で見なくてはなりませんし、社会の中で「気が狂って」しまった人たちへの責任を取らなくてはなりません。
例えば、アボリジニーの文化では、誰かが気を狂わせてしまった時には、種族の全ての人々が一同に会し、種族が何をしたためにその人が狂ってしまったのかについて議論するのです。こういう
ことが、私たちの文化の中で起こることを想像できますか?とても無理でしょう。我々の文化の中で誰かが気を狂わせたなら、病院へ入れてしまいます。その地域のコミュニティの人々が共に集まりコミュニテイの何が悪かったのかを決めるということではありません。病棟の回診で、いわゆる、専門家、その道のエキスパートと呼ばれている人たちが集まり、それも多くの場合、本人の参加なしにクライエントの何が悪くてどうやって治療すべきかというその二つのことを決めるのです。このシナリオは、悲しいことに皆さんにとって馴染みのあるシナリオですが、これでは、クライエントにとっての回復のチャンスはありません。これでは、本人を中心に据えた問題に対してのアプローチの方法ではなく、非人格的な方法だと言えます。このシナリオでは、回復は、客観的なことであり、主観的なことではありません。そして、その本人は、もはや、その回復の過程の真の要素ではなくなっています。
もし、回復のためのプロセスを、回復に向かってブロックを積んでいるとたとえるのであれば、その基礎は、その人自身でなくてはなりません。この回復の旅において、我々が直面する最も高いハードルが我々自身であると、私は、無条件で言うことができます。回復には、自分に対する自信、自己を尊重すること(自己尊重)、自分について知ること(自己覚知)、そして、自分を受け入れること(自己受容)が必要であり、これらなしでは、回復が不可能であるだけではなく、回復の価値もありません。
私たちは、自分たちの生活、人生を変える能力があるということに自信を持つべきです。私たちは、全てのことを他の人にやってもらうことをやめるべきです。自分たちのために自ら、様々なことを始めなくてはなりません。病気であることをやめる自信を持つべきです。そうすることで、回復を始められるのです。私たちのいるコミュニティは、こんなコミュニティでしかありませんが、必要ならこのコミュニティの中の市民となることによって自分をより尊重することに取りかかるべきです。私たちは、社会の中の重要な一員であり、私たちは自分たちの持っている価値に気付くべきなのです。私たちは、自分たちの過ちを認識しなくてはなりません。精神医療システムは、診断名を作り出したかもしれませんが、それを強めたのが、私たち白身であるというのはよくあることです。私たちは、自ら身につけてしまった行動に気付く必要があります。これは、私たちの「過去」の生活の一部であるべきです。私たちを今も患者としての役割につなぎ止めているそんな行動を変えていく必要があります。私たちは、白分たちが誰であり、何であるのかを受け入れて、そして、誇りに思うことが必要です。私は、正直に言うことができます。私は、ロン・コールマンであり、声が聞こえるという一般的に病的体験と言われる体験をしている人問であり、誇りを持っていると。これは、生意気な声明文ではありません。これは、事実に関する声明文です。
私は、私たちが、自分たちは誰であり何であるのかについて、白信を持てるようになった時に、私たちが、これから誰になり何になるのかについても、自信を持てるようになるのだと確信しています。自分に関する4つのこと、要するに、自分に対しての自信、自分を尊重すること(自己尊重)、自分を知ること(自己覚知)、そして、自分を受け入れること(自己受容)が、回復への道の2番目のステッです。
3番目のステップは、2番目のステップと密接に関係しており、私たちの置かれている立場から発していることです。私たちは、自分たちの置かれている立場から言えることが、実に沢山あると確信しています。私たちは、医療システムの犠牲者であり続けることを選ぶことができますし、また、自己憐欄に浸ることもできますし、専門家から24時間ケアを必要とする可哀想な病人であり続けることを選ぶこともできます。しかし、一方で、違う方向を選ぶこともできます。犠牲者ではなく、勝利者となることを選ぶこともできるのです。自己憐欄に浸るのをやめて生活を再開することを選ぶこともできます。可哀想な病人であることをやめて、回復への旅を始めることを選ぶこともできるのです。これが、私にとっての3つ目のステップです。その人が、自分を病人だと考えるならば、自分たちでできる選択も他の人に委ねてしまいがちになります。回復への道は、しかしながら、自ら選択をするということだけでなく、自分たちが、良いこと、悪いことのいずれを選択しようともその責任を自分で取るということを求めます。自ら選択する時には、問違いもおかすでしょう。しかし、間違いをおかすと言うことと、病気が再発すると言うことの違いを学ぶべきです。というのが、問違いをおかした時に精神医療システムに逃げ戻るというのは、安易な方法だからです。私たちは、自分たちの弱さに直面するよりむしろ、また、自分たちの人間生よりも自分の持つ生物学的な面を責めるという罠に陥るものです。もし、回復というブロックを積み上げているとするのなら、自分自身が土台の基礎の石であり、選択は、ブロックとブロックをつなぎ止めるしっくいだということができます。あともう一つ、回復の過程におけるステップがあり、それが、オーナーシップ、(自分の人生は自分で責任を持って自分のものとするという)所有権なのです。所有権というのは、回復における鍵であり、自分たちの体験が如何なるものであろうとも、その自分たちの体験を自分のものにすることを学ぶべきなのです。医者達が、私たちの体験を所有することはできません。心理学者も私たちの体験を所有することはできません。看護婦であろうとも、ソーシャルワーカー、サポートワー力一、作業療法士、心理療法土、家族などのケア提供者、友人、誰も私たちの体験を所有することはできないのです。恋人にしても、私たちの体験を所有することはできません。自分たちがその体験を自分のものとすべきです。というのが、「狂気」の体験を自らのものにすることを通してのみ狂気からの回復を自分の手にすることができるからです。狂気を通しての旅は、実質的に個人的なものです。私たちが、他の人たちと分かち合える部分はその旅の過程の中のごく一部であり、ほとんどの旅行の行程は私たちのものであり、私たちだけのものです。その行程を終えるために必要な道具、強さ、そして、技術は、私たち自身の中にあるのであり、その旅そのものが私たちの内部で行われるものなのです。
このように考えると、回復は、今までとは異なる概念をもつことになります。しかし、私が話してきたことは、ロケットを飛ばすなどという複雑な科学に基づいたことではなく、むしろ、常識によるものです。何も目新しいことではありません。単に、人生を包括的に捉えるという視点を繰り返しているに過ぎません。私たちは、時々、誰も皆、必要以上に物事を難しくしてしまうということを認識する必要があります。これは、まるで人生を、決して理解できないロケットを飛ばすという複雑な科学のようにしなくてはならないということのようです。私たちは、生活をより複雑にするために多くの時間を費やしているように思えます。個人の主観という単純なメカニズムによって自分たちの人生を探究することよりも、科学的な客観性の器具を通して、より複雑なものにしているようです。しかし、異なる概念と出会う時がきました。今が、回復の時なのです。
回復の話をしていますが、これは、医学的なことでも、社会的な回復でもなく、個人の回復のことです。回復の責任は、私たち全員、専門家、当事者、そして、ケア提供者全てにあるのです。私たちが共に力を合わせることによってのみ、回復を成し遂げることができるのであり、お互いに話をし、お互いの話をよく聴くことによってのみ、成し遂げられるのです。私たちが、生物学的なことから、社会的な、そして、個人的な発達へとパラダイムを転換させること、変えることによってのみ、成し遂げることができるのです。ロウムとエッシャーの仕事は、そのパラダイムを転換させ始めました。このパラダイムシフトが成し遂げられるまで、この仕事を続けていくかどうかは、私たち全員にかかっています。私たちが、それに成功するまでは、人々は、声がきこえるから、幻のものが見えるから、違うことを信じているから、という理由で社会から締め出され、鍵のかかるところに閉じこめられるでしょう。それに成功するまでは、人々は自分の意思に反して取り扱われ、それに成功するまでは、社会は狂気を恐れ、それに成功するまでは、文明は未開のままになってしまうのです。回復は私たちが共に目指すゴールであり、今、成し遂げられ得るのですから、この時期を逃さずに、回復が実現するように共に頑張りましょう。過去の違いを過去のものとして背後に置いて、新たな自信と共に新しいミレニアムヘと前進しましょう。新たな概念と共に新しいミレニアムヘと突き進みましょう。新たな旗を掲げて新しいミレニアムヘと突き進みましょう。そして、回復へと突き進みましょう。
注・ヒアリング・ヴォイス
ヒアリング・ヴォイス研究会というのがある。ここでは、幻聴を嫌なもの避けるべきものとして扱わないで、幻聴と折り合って生きてゆく事を模索している。「べてるの家」などで幻聴の事を「幻聴さん」と呼んで、幻聴と上手く付きあって行く事などはその良い例かもしれない。また、この事は一人で行うよりグループで行う方が効果があるらしい。
〈ヒアリング・ヴォイシズ研究会 〉
〒719-0111 岡山県金光町大谷301-1 菩提樹気付
Fax 0865-42-6576 メール fbodaiju@po.harenet.ne.jp