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小林一茶を読む181〜190

181

文政句帖
鼻先にちゑぶらさげて扇かな
文政五年
1822
60歳
鑑賞日
2005
9/20
 高慢になることを「鼻がたかくなる」とか「あの人は天狗になっている」とか言うが、そのような種類のちゑ(智恵)に違いない。要するに、そのような種類の知識であるとか智恵は鼻につくのである。目立つのである。本当の知者というのは知識をひけらかさない。愚者にさえ見えるほどに謙虚である、というのが私の意見である。この句の、鼻に智恵をぶら下げて扇で自分を扇いでいるというのは、いかにも高慢な人物像が思い浮かぶ。

182

文政句帖
春立つや愚の上にまた愚にかへる
文政六年
1823
61歳
鑑賞日
2005
9/21
 還暦の所感を述べた長い前文がある

 このころの一茶が日頃思っている正直な所感であろう。そしてまた「愚の上に又愚にかへる」というのは、智恵の集積の結果の所感であるとも言える言葉であるから、とても立派な句姿にも見えてくる。色紙にでも書して壁に掛けておきたいくらいである。


183

文政句帖
人誹る会が立つなり冬篭
文政六年
1823
61歳
鑑賞日
2005
9/22
 ・・「人の噂は鴨の味」とか言いまして、ことに人の悪口などを噂するのはとても醍醐味のあるもので、暇つぶしにはもってこいの作業です・・人間の世に人間として生きた一茶の人間観察。その痛みも充分に知っている一茶の皮肉たっぷりで真摯な句姿である。

184

文政句帖
梅咲くや手垢に光るなで仏
文政六年
1823
61歳
鑑賞日
2005
9/23
 「なで仏」とは十六羅漢の第一、賓頭盧(びんずる)尊者のことで、その像を撫でて病気回復を祈るものであるらしい。
 なで仏の物象感が感じられたので頂いた。
 七番日記に「ビンズルの目ばかり光るけさの雪」という句もある。ともに土俗的な信仰の匂いがする。

185

文政句帖
寝せつけし子のせんだくや夏の月
文政六年
1823
61歳
鑑賞日
2005
9/24
 〈せんだく〉は[洗濯]

 ほのぼのとした感覚、情景。生きて有ることの実感を噛みしめる愛に満ちた時間というようなもの。夏の月がすべてを物語ってくれている。


186

文政句帖
陽炎やそば屋が前の箸の山
文政六年
1823
61歳
鑑賞日
2005
9/25
 別案に「そば屋には箸の山有雲のみね」というのもあるそうである。別案の方は単なる生活の中の景色であるが、掲出句のように箸の山を陽炎と合わせると少し別のニュアンスが加わるように思う。箸の山に象徴される私達の生の営み自体が陽炎のようだ、というニュアンスである。生活者一茶の中にも無常観のようなものが潜んでいたに違いないと思うのである。

187

希杖本句集
門の蝶子が這えばとびはへばとぶ
文政六年
1823
61歳
鑑賞日
2005
9/26
 〈門〉は[かど]

 子と蝶の楽しげな交感。宇宙のリズムさえ感じる。一茶が子供や小動物を詠むときには、このように宇宙的リズムに同化し得たということは、意味がある。つまり愛するものというのは、人間にとって一つの宇宙感覚への窓である、ということである。


188

文政句帖
牢屋から出たり入たり雀の子
文政六年
1823
61歳
鑑賞日
2005
9/30
 〈入たり〉は[いったり]と読む

 雀は自由でいいなあ。人間は人間を牢屋に閉じ込めたり、あくせく稼がなければならなかったり、様々な心配事を抱えて生きていかなければならなかったり。「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」というキリストの言葉を思い出した。またルオーの次の絵も思い出した。

「人間は人間にとって狼である」

パリ国立近代美術館蔵

 まあ、句はそれほど重くはなく、むしろ楽しい雰囲気であるのではあるが。私の悪い癖ではある。


189

文政句帖
あこが手に書て貰ふや星の歌
文政六年
1823
61歳
鑑賞日
2005
10/1
 吾が子の手に星の歌を書いてもらったというのである。星の歌とは何か、誰に書いてもらったのか、いろいろと想像が膨らむが、ほのぼのと心温まり、またメルヘンもある。

190

文政句帖
僧になる子のうつくしやけしの花
文政七年
1824
62歳
鑑賞日
2005
10/2
 「自分は世俗にまみれて生きて来たが、世俗を断ちきって僧になるという子の何と美しいこと。しかし多分俺には出来なかったことだろうな。この子の美しさは、この世ならぬ芥子の花のような美しさだ」というような心境であろうか。
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