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与謝蕪村を読む 51〜60

51

蕪村句集 

夏の部
巻之上
河童の恋する宿や夏の月
不明
不明
鑑賞日
2005
1/26
 〈河童〉は[かはたろ]と読む 

 ある河童の恋する人が泊っている宿があり、その宿の側にその河童が佇んで宿の人を恋焦れている、空には夏の月が照っている、というような情景であろうか。夏の月がほのぼのと河童を見守っている感じである。同じように幻想的な雰囲気の句「公達に狐化たり宵の春」の皮肉ぶりとは違って、ものごとをあたたかい眼差しで見ている。


52

蕪村句集 

夏の部
巻之上
涼しさや鐘をはなるゝ鐘の声
安永6
1777
62歳
鑑賞日
2005
1/28
 聴覚的なものを視覚的なものとして捉えている。このような感覚の置換が起こるというのはその人の感覚が深いところで作用している、ということだと思う。音を観る・香を聞くなどと言ったり、香り高い文学・色彩豊かな音楽などという褒め言葉もある。
 またこの句を作ったときに蕪村の頭の中には芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」があったと思う。そして蕪村は蕪村らしく、また芭蕉は芭蕉らしい特色が出ているのが面白い。

53

蕪村句集 

夏の部
巻之上
端居して妻子を避る暑かな
安永6
1777
62歳
鑑賞日
2005
1/29
 [はしゐしてさいしをさくるあつさかな]と読む

 いろいろな感覚が優れている蕪村の句の中で、このような日常生活の一コマがうかがえる句も面白いと思ったので頂いた。ちなみに〈端居〉は夏の季語で、納涼のため縁先に出て寛ぐことである。


54

蕪村句集 

秋の部
巻之下
秋たつや何におどろく陰陽師
明和8
1771
56歳
鑑賞日
2005
1/30
 〈陰陽師〉は[おんみやうじ]と読む

 陰陽師とは要するに占いを司る官人である。私は占いというような事を全く無意味無価値だと思っているが、この句はそのような世界に住む人の態をよく表現し得ていて面白いと思った。見ていて何となく笑いが込み上げてくる面白さがある。人間の滑稽さのようなものを捉え得ているのかもしれない。人間の真実というのは愚かでありまた滑稽である。そこのところをさらりと表現できるというのはさすがである。
 また、この句、陰陽師という言葉をからませることによって、季節の運行の不可思議さを表現していると取ることもできる。


55

蕪村句集 

秋の部
巻之下
小狐の何にむせけむ小萩はら
明和5
1768
53歳
鑑賞日
2005
1/31
 現実の世界と物語の世界の中間にあるリアリティーのような雰囲気である。蕪村の動物を扱った句で今までに取り上げたものでも次のようなものは同じような雰囲気がある。

 公達に狐化たり宵の春
 山鳥の尾をふむ春の入日哉
 山人は人也かんこどりは鳥なりけり
 河童の恋する宿や夏の月

 このあたりは、もっと生な現実の動物に共感を寄せた一茶などとは違う所かもしれない。またこの句「春雨や小磯の小貝ぬるヽほど」と同じに「小・・・小・・」という書き方が上手い。これは調子を取るためでもあるし、そこに小さな世界を現出させる効果もある。


56

蕪村句集 

秋の部
巻之下
朝がほや一輪深き渕のいろ
明和5
1768
53歳
鑑賞日
2005
2/1
 美しい、としか言いようがない。あまりにも深深(ふかぶか)と美しいので、泣けてくるものがある。美も極まれば感覚の領域を越えて魂を揺さぶってくるものがあるのだ。
 紺色の朝顔を扱った美しい句を二つ

 暁の紺朝顔や星一つ      高浜虚子
 朝顔の紺の彼方の月日かな   石田波郷


57

蕪村句集 

秋の部
巻之下
身にしむや亡妻の櫛を閨に踏
安永6
1777
62歳
鑑賞日
2005
2/2
 [みにしむやなきつまのくしをねやにふむ]と読む 

 「身にしむ」が季語で、秋がだんだん深くなって寒さが身に入むのを覚えることを言う。そしてもちろんこの季語には「しみじみと心に感じる」という心理的な意味もある。この句ではその心理的なものが鋭く出ている感じがする。「心に突き刺さる」というくらいの感じ方を私はしてしまう。


58

蕪村句集 

秋の部
巻之下
初汐に追れてのぼる小魚哉
安永7〜
天明3
1778〜
1783
63〜
68歳
鑑賞日
2005
2/5
 〈初汐〉は八月十五日の大潮 

 「初汐」「小魚」というような言葉で、若々しい生命感が表現されている。


59

蕪村句集 

秋の部
巻之下
月天心貧しき町を通りけり
明和5
1768
53歳
鑑賞日
2005
2/6
 月が天の真中に昇った頃に貧しい町を通り過ぎた、というのである。事実のような物語の一場面のようなどちらとも言えない雰囲気なのであるが、不思議なのは、このような体験を嘗て自分もしたというような既体験感が起こることである。これは蕪村の句の持つ真実味といったらよいのか、描写力のなせる技なのか、このような例はたくさんある。蕪村俳句の不思議な魅力の一つである。

60

蕪村句集 

秋の部
巻之下
三径の十歩に尽て蓼の花
安永6
1777
62歳
鑑賞日
2005
2/8
 〈三径〉とは隠者の庭中の小道

 だいぶ取る句がなくてとばしてきたが、この句を見てほっとするものがあったので頂いた。何故ほっとするのか。私達は、この物の豊かな時代にあって豊かに過しているようで、実は物に心をすり減らされているということがある。物を豊かに所有し物を豊かに使っているようで、実は物に心を所有され物に心を使われているという事実に気が付くことがある。この句における隠者の生活のように殆どなにもない生を営み、それに満足することができれば、雑草である蓼の花さえも美しく感じるのである。何でもない草の花に美しさを感じられなくなった時は人間性の危険信号だと注意したほうがいい。


            蓼の花

http://haikusouann.web.infoseek.co.jp/page_thumb448.htmlより転載

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