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与謝蕪村を読む 41〜50
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垣越て蟇の避行かやりかな
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安永3
1774 |
59歳 |
鑑賞日
2005 1/16 |
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「かきこえてひきのさけゆくかやりかな]と読む
「かやり」とは蚊取り線香のようなもので、多分昔は草のようなものをボウボウと燃やしたのかもしれない。その煙がくるのでヒキガエルが「こいつはたまらん」といって、垣根を越えて逃げ出してゆくというのである。ユーモラスな動物の姿態を描いている。一茶ほどには動物への一体感はないが。 |
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長旅や駕なき村の麦ぼこり
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明和8
1771 |
56歳 |
鑑賞日
2005 1/17 |
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〈駕〉は[かご]と読む
蕪村の句は懐かしいという感じの句が多い気がするのだが、この句もその一つである。懐かしいというのはどういう感じかと言うと、かつて自分もそんな場面に遭遇したことがあるような感じとでも言えようか。「人生は旅である」とは芭蕉の言い方であるが、これは誰にも当てはまること。かつて旅の途中で麦ぼこりのする村に立ち寄ったことがある、感じが私にもするのである。みなさんはどうであろうか。 |
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愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら
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安永3
1774 |
59歳 |
鑑賞日
2005 1/18 |
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憂愁の心を持って岡にのぼってみると、そこには花いばらが咲いていた、というのである。美しい情感が流れてくるようだ。
『蕪村句集』のこの句の二句前に「花いばら故郷の道に似たる哉」というのがあって、これも優れた句である。そしてこの句も安永3年4月となっているから、同じ時に作られた句であろう。そうすると、蕪村は掲出句において「花いばら」に自分の故郷を重ね合わせているに違いない。萩原朔太郎が蕪村を〈郷愁の詩人〉と呼んだというが、この句などを読むと、まさにそんな感慨が起こる。 もっとも、そのような事情を何も知らないでも、この掲出句は文句なく、美しい。 |
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夕風や水青鷺の脛をうつ
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安永3
1774 |
59歳 |
鑑賞日
2005 1/19 |
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〈青鷺〉は[あおさぎ]、〈脛〉は[はぎ]
絵のようでもあるし、風や水や青鷺の動きがあるからアニメーションのような現代感覚もある。そして句に見入っていると、水を渡ってくる風も感じられるようなリアリティーがある。夏の夕方の水辺に自分自身が立っているような気持ち良さがある。 |
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粽解て芦吹く風の音聞ん
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安永4
or5 1774 or5 |
59歳 or60 |
鑑賞日
2005 1/20 |
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〈浪花の一本亭に訪れて〉と前書。〈一本亭〉は松濤氏、狂歌をよくした。
浪花の一本亭なる松濤氏が訪ねてきたので、粽(ちまき)を解いて芦原を吹く風の音でも二人して聞こう、というのである。いかにも風流人が風流人をもてなす趣向である。このような人と人とのつきあい方が現代にはいかほどあることであろうか。物質的にも経済的にも蕪村の時代からは比べものにならないほど現代は豊かである。少しものの見方を変えれば、殆どの人がこのような心のゆとりを持てる時代だと思うのであるが、そうはならないのが人間の性であるのかもしれない。せめて俳句や短歌をやる人々の間くらいでは、このようなつきあい方をしたいものである。 |
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さみだれや大河を前に家二軒
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安永6
1777 |
62歳 |
鑑賞日
2005 1/21 |
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芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」と比較される名句である。蕪村のは絵画的、芭蕉のは文学的。蕪村のは空間的、芭蕉のは時間的等々いろいろ比較される。 この句もそうであるし確かに蕪村は絵画的な俳句を作る。私の印象では絵筆を使って描いた画より文字を使って書いた俳句のほうが、より色彩がありより明るくより現代的だという気がしてならない。多分これは言葉の持つ抽象性によるのではないか。抽象的だから、それぞれの人がそれぞれ持っているイメージをその言葉にかぶせて感じることができるからではないか、などと思っている。蕪村の絵を一枚
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離別れたる身を蹈込で田植哉
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〜宝暦8
〜1758 |
〜43歳 |
鑑賞日
2005 1/22 |
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[さられたるみをふんごんでたうえかな]と読む
離別の喪失感の中で踏み込むようにして苗を田に植えている、というのである。どうにもならない悲しみ、喪失感の中で自分を押さえてやらなければならない事に集中しようとしているこの人物の姿は人間の悲しみの一つの典型とでも言えるような普遍性がある。私もそうであるが、誰でもがこの姿に自分のある経験を重ね合わせて、共感するものがあるだろう。 |
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しのゝめや鵜をのがれたる魚浅し
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明和6
1769 |
54歳 |
鑑賞日
2005 1/23 |
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鵜の攻撃を逃れた魚が明け方、川の浅瀬に居る、というのである。傷ついているのか、弱っているのか、もう川深くもぐって泳ぐことができないのであろうか。 多分これは昨夜行われた鵜飼の鵜のことかもしれない。その鵜飼のあった次の日の明け方、川に出てみると、浅瀬に浮かぶように力なく漂っている魚を蕪村は見たに違いない。そしてその瞬間に、いのちの哀れさを感じたのである。 |
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石工の鑿冷したる清水哉
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明和5
1768 |
53歳 |
鑑賞日
2005 1/24 |
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〈石工〉は[いしきり]、〈鑿〉は[のみ]と読む。
なんでもない一つの場面をそのまま詠んだものだが、「鑿」と「清水」が響きあって、鑿の金属的で冷たく鋭い感じ、清水の爽やかな冷たさの感じがさらに強調されて表現されている。写生の真骨頂のような句であり、客観写生を唱えた子規が蕪村を手本にしたのも分かる。 |
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河骨の二もとさくや雨の中
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明和年間
1764 〜72 |
49歳 〜57 |
鑑賞日
2005 1/25 |
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「さみだれや大河を前に家二軒」でもそうだが、この「二」という数字を蕪村が使うと良い句ができるのだろうか。この掲出句なども、静かな中にほのぼのとした雰囲気を持った好句である。「二」という数字は伴侶だとか、カップルだとか、番いなどというものを連想させほのぼのとしたあたたかさを醸し出すのであろうか。年譜によると、蕪村は宝暦7年(1757年)42歳で結婚している。このような句を見て、蕪村の結婚生活の睦まじさを想像してもよいだろうか。よいだろう。
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