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与謝蕪村を読む 31〜40
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地車のとゞろとひゞく牡丹かな
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安永3
1774 |
59歳 |
鑑賞日
2005 1/3 |
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〈地車〉は[ぢぐるま]と読む。〈地車〉は大八車の類
地車の音とその振動が伝わってくるような感覚を憶える。視覚、時間感覚が蕪村は優れていると書いたが、この句では聴覚や体感覚まで披露している。この句は前の句と同じ日に作っているが、前の句とも合わせて蕪村の全方位感覚的人間像というものが見えて来た感じさえする。 |
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ちりて後おもかげにたつぼたん哉
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安永5
1776 |
61歳 |
鑑賞日
2005 1/4 |
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「蕪村句集」は季節順季語順に句が並べられている。この辺りには牡丹の句が並んでいるのだが、そのどれもが良い句である。蕪村が特に牡丹を好んだということか、あるいは蕪村の家の庭に牡丹があって蕪村との関係が深かったのかもしれない。 高浜虚子にも牡丹の良い句が多い。少し並べてみよう 牡丹の一弁落ちぬ俳諧史 〈松本たかし死す〉 |
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牡丹切て気のおとろひし夕かな
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安永5
1776 |
61歳 |
鑑賞日
2005 1/5 |
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〈夕〉は[ゆふべ]と読む
泣きたくなるような美しい心情である。これほどまでに牡丹との交感を持っていた蕪村という人の感受性の強さを思わずにはいられない。まるで牡丹が自分の分身であるかのようである。蕪村は牡丹に精霊のようなものを感じていたに相違ない。自然の事物をアニミズムの目で見ることのできるのが詩人の一つの特性であるとすれば、蕪村はその意味でもまさに詩人であった。 |
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山蟻のあからさま也白牡丹
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安永5
1776 |
61歳 |
鑑賞日
2005 1/9 |
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視覚的印象の鮮やかな句である。 牡丹の好句が続いたのでもう一度並べて見てみたい。 牡丹散て打かさなりぬ二三片 みな好句であり、しかも、視覚の良く働いたもの、譬えの良く効いたもの、牡丹の存在感が良くでているもの、聴覚の良く働いたもの、精霊としての牡丹との交感が感じられるもの、等々多彩である。蕪村の全方向感覚のバランスの良さとでも言えようか。 |
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山人は人也かんこどりは鳥なりけり
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安永5
1776 |
61歳 |
鑑賞日
2005 1/10 |
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実にあたりまえのことを言っているのだが、逆に妙な感覚がある。つまり、「山人は人であり、閑古鳥は鳥である」という分別をあえて言うということは、それを言う前の感覚として両者が識別できないような感じがある、ということを蕪村は言っているのである。山人も閑古鳥も同じような自然の精霊で、人であるとか鳥であるとか区別できるのは、人間が理性を働かせた時のみに限る、と蕪村は言っているような気がしてならない。 蕪村の原始感覚のようなものが働いている面白い句であると思う。 |
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不二ひとつうづみ残してわかばかな
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明和6
1769 |
54歳 |
鑑賞日
2005 1/11 |
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これも印象鮮明な日本画といったところか。「菜の花や月は東に日は西に」にしても、この句にしても、どこか東山魁夷風の現代日本画の明るさを持っている。画面構成も対称的とさえ言えるようなもので画布にしっかりと納まっている感じである。これが良いところでもあるし、また欠点でもあるかもしれない。欠点というのは、いかにも絵だという感じなのである。たとえば芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の河」などの、とても画面には収まりきらない感じのものと比較してみるとよく分かる。
東山魁夷の絵を二枚
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絶頂の城たのもしき若葉かな
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安永2
1773 |
58歳 |
鑑賞日
2005 1/12 |
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前の句の似ているが構図はもっとダイナミックで男性的である。前の句を作ったときは芭蕉の「五月雨の降り残してや光堂」が頭の片隅にあったと思う。そしてそれを意識した故に少し力が削がれたという面もあったかもしれない。この句の方が若葉がより生き生きとした感じがする。 |
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若葉して水白く麦黄ミたり
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不詳
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不詳 |
鑑賞日
2005 1/13 |
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〈黄ミ〉は[きばみ]と読む
これは色彩だけで出来ている句である。蕪村の色彩感覚の冴えである。麦は麦の水は水の若葉は若葉の質感さえもが感じられる。 |
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山に添ふて小舟漕ゆく若ば哉
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〜安永8
〜1779 |
〜64歳 |
鑑賞日
2005 1/14 |
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〈〜安永8〉は安永8年以前ということ
「牡丹」の句にしてもそうであったが、ある季題になると面白い句が続いて出てくるのは興味深い。「若葉」という季題でも良い句が並んでいる。『蕪村句集』には「若葉」という題で七句あるがその内五句が私は面白いと思った。一番最初に出てくる「蚊帳を出て奈良を立ゆく若葉哉」も鑑賞を抜かしてしまったが、若葉の持つはつらつとした気分が良く出ている好句である。 |
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若竹や夕日の嵯峨と成にけり
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安永2
1773 |
58歳 |
鑑賞日
2005 1/15 |
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〈成〉は[なり]と読む
美しい句である。「若竹」「夕日」「嵯峨」という言葉の連なりの作り出すイメージが大変に美しい。私は嵯峨という土地柄を知らないが、この句は「嵯峨」でなければ駄目だということは分かる。逆に言えばこの句から、嵯峨という土地柄が分かるような気さえするのである。 |
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